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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第一章 東京陸軍航空学校
 七 号令


軍隊では、朝の起床から夜の消灯迄すべてラッパと号令で生活しているが、自分がその号令をかける立場になるとこれがなかなか大変である。

学校では週番勤務を全員が交代して勤務につく、被教育者の立場が長かった我々は伍長に任官してからも同じ勤務が続いた。その週番には二種類あり、内務班を受け持つ内務班取締生徒と区隊を指揮する区隊勤務生徒である。さて号令であるが班取締生徒は朝晩の点呼で人員報告をする程度ですむが、区隊勤務生徒は朝食の集合から夜の目習時間が終るまで区隊を掌握しなければならない。

入校当初より号令のかけ方、タイミングの合せ方いろいろ教えられてはいる、しかし実際にその勤務についてみると予想よりはるかに重労働で、毎日の学科、術科の事前の打合わせに区隊長室、班長室と走り回り、服装、携行品その他を区隊全員に伝達し、課業整列となれば自分の号令で四十八名を指揮するのである。五十名たらずの集団でも自分の思うように号今一つで動かすにはそれなりに経験が必要で、最初は折角きれいに揃って行進している隊伍を号令のタイミングが悪いばかりにばらばらにくずしたり、まるで違った号令をかけたり、いろいろ失敗を重ねながら二日日、三日目でなんとか格好がつくようになる。毎週勤務交代は土曜日の正午であるから、水曜か木曜になりやっと勤務に慣れる頃、大きな声を朝から晩まで張り上げているので声が出なくなってくる。早い者で水曜日、普通は木曜日で金曜日まで声の出る者は少なかった、だから木曜日の午後の課業整列はどの区隊も同じように、かすれて出ない声を無理に張り上げて人員報告をしていたものである。号令演習、軍歌演習と毎日声の訓練はしているが実際の勤務に付くにはまだ訓練不足だったのである、この声の出なくなるのは一度は通らなければならない関門で、どんなにひどい声になっても区隊長、班長共に黙って見守っていてくれた。そしてこの地獄の一週間が過ぎるとその後同じ勤務に付いても二度と声で苦労することはなかった。どんな事でも訓練と経験が必要であるが号令一つでも見ているほど簡単にはかけられないということがよくわかった。話は少しそれるが、新聞、テレビでよく学校の部活で訓練中に人が死んだという記事がある、これは先生も学生も基礎体力の計算もわからず「しごき」と「リンチ」を混同していると思われるケースが見受けられる。軍隊といえばすぐ凄惨なリンチを思い浮べる人が多いと思う、勿論どの学校、教育隊にも「しごきの伝統」はあった、しかしこれは永年の経験から割出され、生徒、学生の体力を計算した「しごき」でリミットがありそのために現在のように人が死ぬというようなことは考えたこともなかった。つまり基礎体力、経験どちらも不足ではないだろうか。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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