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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第一章 東京陸軍航空学校
 六 ガス実験


忘れられない思い出にこのガス実験がある、練兵場で携帯天幕による幕舎構築の実習を完成したときのことである
「全員ガスマスク装着、この中へ入れ」
と命令された、何が始まるのかとおそるおそるマスクを付けて入ると「只今から催涙ガスの実験を行なうから注意をよく聞け」と一応の注意があった。催涙ガスというから涙が出るんだろう程度で、その苦しさを知らない者ばかりである、その時は「ハイ、ハイ、」と軽い気持で注意を聞いていた、ところがそれからが大変、班長が手にしているガス筒に点火、それも三本一緒である、アッという間に黄色の煙が充満して何も見えなくなる、その時マスクを付けているので大きな声にはならないが、全員「ワーッ」と悲鳴を上げた。ガスを一息吸ったときから呼吸が困難になり、首筋、手等露出部分は針で刺すような痛みが走る、直前に聞いた注意も役に立たず、慌てれば慌てるほど大きい息をするので尚苦しさが増す、
「このままでは窒息する、あの天幕を突き破って外に出たい」という誘惑に負けそうになる、しかし誰も立ち上がらない、もう少しの辛抱だと周囲を見渡すと部屋が自分達で作った天幕の幕舎であるからガスも次第に薄れ、人の顔も見えるようになり、この頃になってやっと注意されたように少しづつ呼吸する要領も分かりやっと蘇生の思いがした。夜の点呼が終り消灯前のひと時、その話をすると殆ど全員が同じような事を考えていた事がわかり大笑いしたものであるが、もしあの時、誰か一人逃げ出していたら、果たして何人残っただろうかと今考えても面白い。

ところがこのガス実験は非常に近所迷惑な演習で実際にガスの洗礼を受けた者は一時的に免疫になり涙は出なくなるが、その周囲の人達はそうはゆかなかったようである。天幕から開放された時被服にガスが付いているからよく叩いてとるように指示は受けているが、なにしろ窒息寸前から開放され、 一時的にせよ免疫になっているので適当にはたいて中隊へ帰ってきた。丁度夕食の時間で我々第二区隊も軽い気持で大食堂へ入った、 (この大食堂は中に柱は一本もなく、 一度に二千名収容出来る広い食堂で端の方は湯気でかすんでみえない)そうすると我々の中隊は勿論、隣の中隊その又隣の中隊と順次涙を流し始めた、結局、食堂の半分くらいが被害を受けたそうである。しかしその後食堂でその被害を受けた覚えがなかったが、今になってあれは我々の区隊だけが実験材料にされたのか、事後の処置を他隊へ迷惑をかけないよう指示されたのか定かではない。このガスマスクという物は東航校、熊飛校共にしごきの道具として最も効果のあったものであろう、熊飛校のしごきに完全武装でガスマスク装着の駆け足があったが、その苦しさはこれに勝るものはあるまいと思われる、なにしろ大きな呼吸ができないのであるから。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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