「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫
全文掲載 |
これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
第一章 東京陸軍航空学校
五 得手 不得手
人間誰でもそれぞれ何か得意なものがあり、又これはどうしても出来ないということがある、前記の剣道、休操、教練ではあまり人に負ける事はなかった、ところが書く事の不得手な私はこれにはいつも苦労した、作図演習といって野外で実際に歩測で距離を測り目標になるものを記入して見取り図を作る作業がある、字の下手な者が作図だけうまく書けるわけもなく、戦友の書いたのを見せて貰い、それを写してなんとか提出するというカンニング作図ばかりやっていた。翌年熊飛校に入校してからも今度は気象学で天気図の作図がうまく書けなくて同じく人の書いたのを写すのが専門であった。次に不得手なものは鉄棒であったがこれは上手に出来る者の方が少ないのでいくらか気が楽であった。これはせいぜい蹴上がりが限度であった。ところが他の運動はなにをやっても下手なのに鉄棒だけは大車輪まで見事にやってのける者が居たりして得手不得手というのは面白いものである。
それから当時は何も考えずに軍歌演習でつぎつぎといろいろな軍歌を覚えた、そして学校を変り部隊を変わってもそのメロデイーは同じであり、それを当然の事と考えていたが、今から思えばあれは全部楽譜なしである。何処の部隊どの中隊にも歌の得意な下士官が必ず居て自分の歌を何回も復唱させて教えたものである、そう考えてみると軍歌というものは歌の得意な下士官によって代々受け継がれたものだが、よくメロデイーが変らなかったものだと改めて感心するのである。
得手不得手で決定的に差のつくのが水泳である、遊泳演習に行って生れて始めて海へ入る山国育ちの者と、海辺で育った者とでは較べるのは無理な話であるが、今のゴルプのようにハンデイーをつけてくれないのが軍隊であるから結局山国育ちの者が受難の日を送ることになる。昭和十七年夏千葉県館山の海岸へ一週間遊泳演習に行ったが、先ず中隊を四班に分ける、
一班は泳ぎの得意な者、二班は五十メートル泳げる者、三班は少し泳げる者、四班は金槌の組で赤い帽子をかぶる。軍隊で行なわれた代表的な訓練方法をあげてみると、
『亀の子』焼けた砂浜へ膜這いになり手足の動かし力の基本を練習する
『鰹つり』褌の後ろに紐を付けて竿で水面に浮かせる、そして砂浜で練習をした手足の動かし方を実習するのであるが、そのうちに竿がゆるめられる、紐でつられている本人はだんだん水の中へ沈む、アツプアップしているとつりあげられる、この繰り返しである。
『達磨転がし』最後の仕上がこれで、舟に乗せて二、三十メートル離れる、そして「泳いでも潜ってもどちらでもよいから岸までたどりつけ、飛び込め―っ」
こんな調子であるが、どんな場合でも救助体制だけは十分整えてあるが、いずれにしても、親には見せられない光景である。私の場合は二日間平泳ぎの訓練を受けただけで一班に昇格することができたので、山国育ちにしては上出来であった。
昭和62年発行
「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載
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