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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが昭和62年、
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第一章 東京陸軍航空学校
 四 教練 体操


軍隊の学校教育を賛美するならば、世界中どこの国でも陸、海軍を問わず、助教、班長を勤める優秀な下士官を多数集めていることで、これが教育訓練の成果を上げる最大の原動力なのである。東航校の各班長も全国の部隊から選抜された優秀な人達であった。

十五、六才の少年達の体力の限界を正確に把握していて、どんな過酷な訓練であっても生徒の個人差を考慮して落伍寸前のタイミングを不思議と思える程正確にキャッチして一人も落伍をさせなかったのである。このようにして一年で上級学校で必要な体力、学力を養成するのが東京陸軍航空学校の使命であった。

教練は当然必修科目であるから特筆することはないが、只、兵器装具は一般の兵隊と同じであり年令が若いので入校して始めて銃を手にする者が多く最初はかなりきつかったのは事実であるが、卒業前のメーンエベントである習志野の大演習の頃にはその猛訓練に耐え得るだけの体力に鍛えあげられていたのである。ところが体操は予想とは大違いで昔から行なわれている軍隊の四角張った体操は一切やらずに、その頃海軍でも採用されていたデンマーク体操(それぞれ航空体操、海軍体操とよんでいた)このスマートでリズミカルな柔軟休換を一年間徹底的に教育を受けた。現代のエアロビクス運動を見るように当時としては斬新な感覚の運動であった。その故か今日でも同年代の人よりかなり身体は柔らかいと思う。

次に以外に感じたのが一般的なスポーツである、軍隊語で言うならば裟婆(シャバ)の学校で行なわれていた運動は殆ど取り入れられていてバレー、バスケット、熊飛校へ進んでからは野球、テニス、までやったが、勿論その他に鉄棒、飛び箱、相撲,棒倒し等々、これはすべてのスポーツに要求される瞬間の判断力と瞬発力の訓練が目的であり、ヒ―ローは不要であるがどんな運動でも全員がある程度以上の技 に上達することが要求されたのである。現在盛大に行なわれる高校野球を見る度に同じ野球でも世相が変わればこうも変わるものかと戦前戦後の移り変りを改めて思い知らされるのである。いずれにしても班長達がどの球技にも精通しているのには只驚くばかりであつた。しかし入校一ケ月くらいはいくら身体の柔らかい少年時代でも身体の節々の痛みに耐えかねる思いがしたものである。

我々十四期生も昭和十七年秋の体操の祭典に明治神宮外苑へ出場することに決定し、夏休みが終ると早速訓練が始められた。先ず最初は一千名が一度に行なう航空体操からであるが、 一糸乱れずという表現があるが一区隊四十八名でもなかなか手足が揃わないのにいっぺんに一千名の大集団が一人の号令で行進、整列、体操を行なうのであるからそう簡単にピシッと揃う筈がない、やっと合格点がつけられる迄に約ニケ月を要した。そしてその祭典終了後には新聞、その他各方面から最大級の賛辞を与えられ面目をほどこすことができた。航空体操に並行して当日披露する個人演技の機械体操、フープ、マット運動の訓練も始められたがそのマット運動で入校当日上級生の訓練を見てびっくりした『空戦』という演技を自分が選ばれて特訓を受けることになったから驚いた。この訓練は先ずマット上で前転、後転から始まり、次には踏み切り板を使って水平跳びの訓練に進む、跳躍したとき空中で身体が水平に伸び切る状態、テレピで見るスーパーマンの姿勢を想像してもらえばよいが、なるべく空中で長くその姿勢を保つことを要求された。そして着地、 一回転して起き上がるのであるが練度が向上するにつれ踏み切り板とマットの距離を離し、その間に人間を腹這いにして並ばせだんだん人数を増し最高は十二人であった。勿論腹這いになる方も、もし失敗されるとかなり強烈な苦痛を味わうことになるので、なるべく身体を重ね合せているが距離にすると四メートルちかく跳ばねばならないのである。さて、最後の仕上げは問題の『空戦』である。二人がペアになリマットの両端から反対方向へ同じ歩数を測る、そして合図と同時に両方からスタートし、マット上で今迄訓練した水平跳びを空中で上下に擦れ違うように跳ぶのである、その上下は勿論定めてあり下を跳ぶ者は後半足を開き、上を跳ぶ者はその開いた足の間を抜ける、という演技で今の運動用語でいうならマット運動のウルトラCである。

二人の呼吸が揃わなければ間違いなく空中衝突であり、訓練中その恐れていた衝突もおきて医務室へ担ぎこむ事故もあった、口や態度には表わせないが恐怖感からくる極度の緊張感で最初のうちは瞬間目をつむつて「エイッ」という感じで相手の動きは全然見えないが、それでも回数を重ねるうちに相手の動きも見えるようになり、祭典出場をを待つばかりになった。この祭典の模様はニユース映画で報道されたと聞いていたが一度見たいものと今でも思っている、毎日毎日の訓練で自分達の動作がよく揃つているかいないか列中にいてもわかるようになるもので、今日は一糸乱れず最高の出来栄えであったと帰りの車中で教官からも誉められ、苦労の甲斐があったと大喜びしたものである。人より運動神経が優れているとは思えない自分がよくあんな難かしい運動の選手に選ぼれたものだと今でも不思議に思うのであるが人間訓練次第でなんでも出来る見本みたいなものだろうか。

次に剣道、正式には双手軍刀術というが、東航校、熊飛校を通じて柔道、銃剣術の教育はなく両校共に防具一式を支給され二年間剣道だけをみっちりしぼられたが、これが又現在のスポーツとしての剣道とは目的がはっきり違っているので、小手先の技は一切通用しなかった、試合では竹刀の先が曲がるくらいに打ち込まなければ「一本!」とはならなかった。とにかく、いつ、どんな時でも猛烈という言葉そのものずばりでなければ通用しなかったのである。この剣道に関しては京都在学中三年間学んでいたのが非常に役にたち、入校当初から助教代理に起用されたり後の班長大川曹長は「俺は銃剣術専門で剣道はあまりやったことがない、仙石お前俺の相手をしろ」と、よくど指名がかかった、その為卒業迄いろいろと班長の点数が良いので戦友達より少しずつ楽をしたのではないかと思う。又、隣りの三班の班長山田軍曹(岡山県津山市在住)にも何故かウケがよくて野外演習では仮設敵という楽な配置によく連れて行って貰ったものである。卒業前に陸軍戸山学校の段級試験があり双手(モロテ)軍刀術初段が与えられたが、これは地方の武徳殿、講道館の二段か三段に相当する値打ちがあった。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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