「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫
全文掲載 |
これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
第五章 転属 終戦
七 飛行兵生活を顧みて
別表に少年飛行兵の第一期生から第二十期生までと乙種制度による短期教育の第十四期生から第十七期生の採用人員及び戦没者数の一覧表を作成してみた。
教育を終り作戦任務に従事していた第十二期生までの採用人員は8151名で、戦没者の数は3332名あり、四〇.九%に相当し、最も消耗の激しかった第六期生は戦投者がなんと五二.二%の高率になる。
ここまでは操縦、通信、整備の各分科別の戦没者数は大体同率と思われるが、第十三期生以降は操縦の戦没者の比率は少なくなってくる、これは教育期間の問題であるが、しかし特攻隊は別で、空中戦は出来なくても離着陸さえ出来ればよいという感じで編成されているから第十三期生から急に多くなる。第十四期生、第十五期生の戦投者に関しては甲、乙に分けられないので二分してある。
昭和十七年四月から二十年十月まで、少年飛行兵第十四期生として教育訓練に明け暮れ、自分の青春を完全燃焼させる事ができたのは、終始いつも幸運に恵まれ復員するまでそのツキが落ちなかったからだと確信している。
千五百二十名が同じ希望に燃えて入校し、その後いろいろな過程を経験するのであるが、戦争中「軍隊は運隊だ」とよく言われたが正にその通りで成績の善し悪しにあまり関係なく、配属された学校、部隊によって自分の運命が自分の意思に関係なく決定されていったのである。
それで私は自分にツイていた幸運を考えてみると
一、昭和十五年に少飛第十二期生の募集に応募して見事不合格になったことから始まる、この一年の違いは非常に重要な意味を持っている、もしパスしていればかなり戦死の確率は高くなる。
二、希望が叶い熊谷陸軍飛行学校へ配属になり、尚、本校で数菅が受けられたこと、分教場と本校では機材設備その他格段の相遼があった。
三、熊飛校を卒業する時、大型機志望、任地希望北支が実現したことにより、新しい機材で燃料制限等もなく、充分に実用機による教育を受けることができた。戦場である筈の北支でも大同には貴重な中国の財産である雲岡の遺跡と大同炭鉱があり、これが在支米軍より我々を守っていてくれたものと戦後になって理解したが、とにかく戦争とは別世界で飛行訓練に専念したのである。
四、最後まで戦場にならなかった朝鮮へ部隊が移動したことで空襲を受けることもなく、日本人は多いし数ケ所移動しているが何処に居ても戦争による被害は受けていないので、内地の空襲による惨状のニュースを聞いてもピンとこない程表面は平和な生活を送っていた。
五、これは大穴で、宣徳の二十五練飛から新義州の十二練飛へ転属したことである。これにより三十八度線以北に居ながら二十年十月に復員することになり、そして宣徳に残った同期生はシベリヤヘ抑留され苦労させられたのである。
昔から運、不運ほ紙一重と言われるが、軍隊では文字通り紙一枚、つまり命令書一枚で明暗が分けられたのである。
十九才で終戦になり、早くも四十年余の歳月が流れ、齢、還暦を迎えるにあたり昭和二十年八月の終戦を思い出す度に、我々の長かった被教育者生活も余すところ二、三ケ月、二式複座戦闘機キー四五
屠龍の未修教育を終れば待っていたのは間違いなく特攻隊の編成しかなかったのであるから、その長かった教育訓練に感謝しているものである。
そして若くして散っていった数多くの先輩、同期の英霊に対しては、生を永らえた者として衷心より御冥福を祈るのみである。
昭和62年発行
「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載
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