[ TOP ] [ 新着 ] [ 太平洋戦争 ] [ 自費出版 ] [体験記] [ 活動 ]
[ リンク ][ 雑記帳 ][サイトマップ] [ 掲示板 ] [ profile ]

 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第五章 転属 終戦
  六 舞鶴上陸 復員


昭和二十年十月三十日の夜明け、始めて内地の山が見えた、伯耆の大山(ホウキのタイセン)である。期せずして万歳の声がわき上る、僅かな期間内地を離れただけであるが再び帰って見る日本の山の美しさは実に素晴らしく、どの顔も只、感激の涙あるのみ、舞鶴はもう近い。戦後何十年経ってもこの伯耆の大山は見る度にあの時の感激を思い出すのである。

丹後半島を廻って港へ近ずくともう船室には誰も居ない、甲板は人、人で鈴なりの状態である。一晩ゆっくり休養できたので身体の調子も大分良くなり、荷物こそ戦友が持ってくれたが内地の上を無事踏むことができで解散式にも整列した。

この頃はまだ復員援護も簡単なもので、それぞれの郷里までの乗車券を手渡され、全員整列をして簡単な挨拶があり、 「敬礼」「さようなら」と実にあっけない解散である。三年半生死をかけてきた幕切れにしてはあまりにも林しい別れである。

しかしこれも止むを得ないことで、軍人は襟の階級章と腰の軍刀や帯剣があってこそ威厳が保てるが急にこの両方共に無くなってしまうと、なんともしまらないもので丸腰という言葉を実感として感じた。

同じ人間の集団でありながら、群山まで引き上げて来た時の整列は部隊であったが、この舞鶴ヘ上陸して解散式の整列はひたすら故郷へ帰る事だけを考えている引き上げ者の集団に変わっていたのである。

さあ、これからは自分で家まで帰らなければいけないと気をとりなおして京都行の列車に乗り込む、上陸するまでふらふらしていたのが内地の上を踏むとまるで嘘のように元気になり、名古屋まで同行する予定の十五期生(氏名失念)が安心してくれた。東舞鶴駅の乗車は復員する者ばかりであったが西舞鶴駅へ着いた時、 一同ただ唖然とするばかり、それは客車の窓から男も女もどんどん入ってきて、当然身動きできないような混雑である。僅か一年三ケ月内地を離れていただけなのにこれはえらい事になっているが、こんな状態で東海道線に乗る事が出来るだろうか と心配になってきた。

京都は昭和十四年四月から十七年三月、東航校へ入校する直前まで伏見桃山で寄宿舎生活をしていたが、夜の京都駅のホームに降り立つてみるとその頃と少しも変わっていないので先ず一安心、早速東海道線の連絡を調べてみると夜明けに名古屋へ到着する夜行列車がある、それではなんとかこれにもぐり込もうということになり東海道線上り組が一集団できた。


待ち時間がかなりあるので京都の街が見たくなり新京極まで歩いてみる、終戦直後の事で勿論夜の賑やかさは無いが町並はそのままで、狭い抜け道を通ってみたり高瀬川に沿って歩いたりしてみると、三年半の月日がほんの僅かな期間だったような気分になり、二、三日前から絶食状態だったことは完全に忘れて懐かしさに夢中になって歩いた。

西舞鶴では予想もしていなった窓からの乗降でびっくりしたが、その気になればそんな事は我々の最も得意とするところなので、なんとかなるさと上り列車を待ったが心配した程でもなくそれぞれもぐりこむ事に成功した。夜明け前に名古屋駅に到着したが中央線に乗る者は他にいなかったのでここで始めて一人になった。

一番列車に乗り名古屋駅を出発して驚いた、夜が明けてみると十九年七月に熊谷から帰省した時見た名古屋の街が無いのである。まるで瓦礫の山と焼け野原が一面に続いている、前夜京都で懐かしさを味わってきただけに大変なショックであった。空襲の被害の大きさは朝鮮のような無風地帯に居た者には想像することさえできなかったのである。

七時に土岐津駅へ到着、早くも知人に会い「ご苦労さん」と声をかけられ、嬉しい筈なのにどうにも釈然としない気持であった。今迄服装をキチンと整え堂々と胸を張って歩くのが飛行兵の唯一のオシャレであり楽しみでもあったが、手製の敷布で作った袋をかつぎ前にも言う丸腰というのは自分ではなんとも格好が悪く、丁度通勤時間に着いてしまったので、なるべく人に会わないように人通りの少ない道を選んで家へ帰った。釜山の港でマラリヤ熱を出してうなっていたのが遠い昔の出来事に思える程体力は回復していて昭和二十年十月三十一日朝、自分の家の前に立つ事ができた。

昭和二十年になってからは移動が多くなり、手紙も移動する度に一通出すのが精いっばいで、最後の手紙は新義州から出したのが届いており、シベリヤヘ抑留されたものと諦めかけていた矢先だけに、まるで夢のようだと家族が喜んで迎えてくれた。

この時、年令十九才と八ケ月、青春の夢を大空にかけた少年飛行兵生活も、この日をもって終りを告げた。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


アイコン 戻第五章 転属 終戦 五 釜山埠頭 へ
アイコン 戻天空翔破に憧れて 目次へ
アイコン 戻る 戦争体験記の館へ アイコン 戻る 軍隊・戦場体験記