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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第五章 転属 終戦
 五 釜山埠頭

待ちに待った釜山へ出発する日が定まり、敷布で大きな袋を作って荷物をまとめ、食料も各自持てるだけ持ち、列車で釜山へ向かって出発した。この場合も同じ南鮮にいても何十粁も行軍をして釜山へ到着した部隊が多かったと聞いている。

釜山へ到着して始めて見るアメリカの軍艦、高速魚雷艇、ジープ等々、まるで外国の港へ来たような感じである。丁度その時期に内地は台風が通週中で復員船が二、三日遅れると発表があり、船が到着するまでそのまま埠頭で野宿することになった。その間にアメリカ兵による所持品検査が実施され、始めてここでアメリカ兵と対面することになった。

百聞は一見に如かず、見ると聞くとは大違いで出発前、所持品検査が物凄く厳しいからと脅かされていたが、白人兵も黒人兵も所持品には目もくれず時計、万年筆その他自分のポケットに入る物を探すのが彼らの仕事のようであった。終ってみれば、こんな検査なら大切にしていたアルバムその他焼かずに持ってくればよかったと皆で残念がったが、これも手遅れでなんともならない、私は時計とベンダント風に作った磁石を取り上げられ
た。

南鮮の群山へ引き上げてきてからマラリヤにかかり三十九度、四十度の発熟を経験したが、十月下旬の釜山の埠頭の野宿は昼は暑く夜は非常に寒いので、そのマラリヤが再発して四十度近い高熟が周期的に出たが、このどさくさでは軍医も衛生兵も何処に居るかわからない。それても特効薬のキニーネは充分渡されていたのでそれを飲み、熱が出ると戦友達が押えていてくれた。

夜ともなれば隣りの埠頭に停泊しているアメリ力の軍艦の甲板では映画が上映され、アメリカ兵の陽気な歓声が上る、こちらは自分の持物を全郡身体にまきつけて夜の冷え込みと熱による寒さの両方でガタガタ震えながら敗戦国の悲哀の一端を始めて味わったのである。

予定は少し遅れたが二十九日には復員船が接岸し乗船許可が下りた、 「もうこれで内地へ帰れるぞ」と喜び勇んで乗船が始まったが、私は発熱が治まったばかりでまだふらふらである、荷物は戦友達が手分けして全部持ってくれたが、タラップを這うようにして上り、やっと船室に落ち着くことができた。考えてみれば埠頭の野宿三日間のうち二日は発熱の為に食べ物も水も殆ど口にしていないのでグロッキーになるのも当り前である。

日本の船に乗り込み、もうこれで内地へ帰れるという安心感と夜風に当たらなくてもすむので、船が出港するのも知らずにぐっすり眠ることができた。



    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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