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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第五章 転属 終戦
 四 南鮮へ

八月二十一日、正午に部隊命令で翌二十二日正午出発、列車で南鮮へ向かうと発令された。

この四、五日間のもやもやを吹き飛ばすように全員が張り切って移動準備にかかり、夜半までに整理を終り徹夜で列車に荷物の積み込みも終った、この移動にあたり被服倉庫の荷物を減らすのと、この先どんな事態になるか分からないということで、大同着任の時と同じく上から下まで全部新品の被服が支給された。数時間後にソ聯兵が新義州へ到着するという際どい状態にありながら、その時は何も知らないので少しでも内地に近い所へ行けるだけで満足し、貨物列車に乗り込み二十二日正午、時間通りに無事出発することができた。

途中停車をする度に各地のニュース、噂が伝わり、目的地群山へ到着する頃には、三十八度線で朝鮮が二分された事、南鮮はアメリ力が管理する事等々、おぼろげながら自分達がおかれている立場、終戦後僅か一週間で目まぐるしく情勢が変わってゆくのが分かってきた。

群山という町は大田、光州等と共に日本人で栄えていた町で、日本人小学校へ部隊全員落ち着いたが、新義州のデモ行進、北鮮地域で聞いた暗いニュースはまるでよその国の出来事ではないかと思える程のんびりしている、とにかく戦争に負けたんだという不安感がまるで無いのである、それほど日本人が多かったのかもしれない。毎日ぶらぶらしながら外出まで許可され、満州や北鮮にいる人達には申し訳ないような一ケ月が過ぎた。

こんな情況の下でも外出すれば必ず親しく出入りできる家を見付けてくるのが我々の特技でこれを称して町にピストを作ると言っていたが、衛兵所がある訳ではなく、今迄の生活からすればまるで野放しの状態をよいことにして夜ともなれば町へ出て行ったものである。しかし、大同炭鉱の住宅、水原、新義州の邦人宅で世話になった時とは当然事情が違い、いくら大勢の日本人がいるからといっても財産を捨てて日本へ身体一つで帰らなければならない人達ばかりである。特に民間では正確な情報が遅れているとみえ北から移動して来た我々は情報源のようであった。


次は近くの論山という町へ移動して日本人農家の倉庫を借りて生活することになった。この時九月も下旬になっているが、まだ部隊は武装解除は受けておらず武器弾薬はそのまま持っているので、毎日暇を持て余している我々は兵隊達から手榴弾やダイナマイトを貰って付近の川や地へ行き、荒っぼい魚とりを始めた。いくら強がりを言い、負け惜しみを言ってもやはり内心何時内地へ帰れるかと思えば、いらいらするのは当り前でストレスの解消には持ってこいのいたずらであったが、あまり派手にドカンドカンやり過ぎたので、早速弾薬類一切持ち出し厳禁の命令が出され悪ガキ隊は解散させられた。この頃になるといっばしの愚連隊気取りで、古い兵隊達もあの連中にはと一目おくようになっていた。なにしろ過去三年半、朝から晩まで分刻みで教育訓練に追い回されていたのが、急に一日中何もしなくてもよいと言われてもなかなかじっとしている訳にはゆかなかったのである。

十月になり、各自所持している私物の軍刀の処分について指示があった、当然没収されるものと予期していたのが、刀の良し悪しに関係なく一口(ヒトフリ)二百円で買い上げるというのである、航空隊の場合は下士官も殆ど軍刀を持っているので、部隊中の軍刀を全部買い上げるとすればかなり大金が要る筈である。これも戦後いろいろ読んだり聞いたりしたが、武装解除をする前に軍刀だけを買い上げたという例は他には無さそうである。暇を持て余している所なのでこの金の出所を皆で想像してみたが、現地韓国人による自警団が組織されていたが全くの丸腰であり、もしアメリカ軍に渡る前に武器を欲しがるならば刀より銃が優先する筈であるが、これは部隊として渡す訳がないだろうし、結局部隊の経理が手持ちの朝鮮紙幣が使えなくなるので、こんな形で分配したのではないかと結論づけたが、まず推理に間違いはないだろうと一晩話題に花がさいた。

その二百円を有難く頂戴したところまではよかった、朝鮮は準内地という扱いで外地加俸がつかず内地と同じ給料であるから当時の二百円は給料の何倍かである。その直後に、復員する時朝鮮紙幣と日本円と両替できるのは下士官、兵は二百円と通達されたので、四十一教飛出身者は殆どの者が「シマッターッ」と青くなった、というのは、大同では外地加俸がつき、それに加えて航空加俸がつく、そして金を使う機会もないので貯まる一方である。朝鮮へ来てからも準内地とはいえ航空加俸があるので一般の下士官より給料は多い、これが世帯持ちなら当然内地へ送金しているだろうが、なにしろのんきなチョンガーばかりの集団である、それぞれ三千円、四千円と額の多少はあっても朝鮮紙幣の大金を後生大事に持っていたが、もう手遅れで今更内地へ送金する方法もないので「シマッターッ」という次第である。復員して間もなく就職、その年の十二月始めて貰った給料が百円であったのを思い合せるとその当時の四千円は相当な大金だった訳である。

それからの毎日はどうせ持って帰っても紙屑なら使ってしまえと、内地の人にも申し訳ないような贅沢な生活が釜山へ出発する日まで続いた。

南鮮の十月は内地の秋と全く同じで、秋の味覚といわれる食べ物はなんでもあり、その当時の内地の食料事情に比べれば実に品物は豊富で、毎日物売りはこちらの金を目当てに足下をみているので値を高くしていろいろな品物を次から次へと持ってきた。

十月中旬になるといよいよ内地へ近く帰れそうだと噂が流れ始めた、するとそれを裏付けるように武装をまとめることになり、航空関係と思われる持物、被服、写真は官物、私物を問わず焼却せよと命令が出された。結局私物は全部焼く事になり、朝鮮紙幣の使い残りも、飛行学校当時から持ち歩いていた記念品、アルバム、落下傘の紐一本に至るまで一切二、三日がかりで灰にしてしまった。この時になってもまだ武装解除をされたのではなく、自発的に武装をまとめただけでアメリカ兵の姿はまだ一度も見たことはなかった。


    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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