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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第五章 転属 終戦
 三 終戦

正午に部隊全員集合が命ぜられラジオで重大発表があるということであった。東を向いて整列、「只今から天皇陛下の玉音放送がある、謹んで承るように」と部隊長から前置きがあって放送が始まったが、 「ガーガー、ピーピー」と雑音が多く声も大きくなったり小さくなったり、とにかく不明瞭で聞き取りにくかった。放送が終ると同時に「戦争が終ったんだ」「いや違う、皇国を護持する為総決起せよという事だ」と喧喧囂囂とどまるところを知らない、結局部隊長の回りくどい説明で戦争に負けたんだということははっきりしたがそれからはやはリパニック状態が夕方まで続いた。

しかし、 一夜明けて十六日の朝「おい、あれはなんだ、何をしているんだ」という声に兵舎の外を見ると、部隊周辺の道路を日の丸の旗を持った人達がぞろぞろと歩いている、すると「あれっ、あれは日の丸とは違うぞ、色が付いている」その時まで我々は韓国の国旗を全然知らなかったのである。こちらはまだ武装した部隊であり、相手は非武装であるからトラブルは起きなかったがデモ行進を行なっている事に間違いはなく、昨日からの議論は何処かへ吹っ飛んで現在居る所が今迄の準内地ではなく、外国になってしまったという事実を思い知らされ、これからどうなるだろう、内地へ帰ることができるだろうかと一同シュンとしたのは確かである。

新義州は国境の町、対岸は満州という土地柄だけにしばらくすると非常にショッキングな噂が流れ始めた、それは満州では財産家の日本人が満人に殴り殺されたとか、日本人将校が生き埋めにされたとか、何処からともなくいろいろな噂が流れデマがとび、その反動で血の気の多い連中がたくさん居る航空隊のことであるから、かなり不穏な空気になってきたがそれを一生懸命説得して事なきを得たのは古参下士官であり、若い将校であった。戦後聞くところによれば内地ではこの混乱期に若い命が無為に失われた事件が数多くあったようであるが我が十二練飛では幸いにも不祥事は起きなかった。

新義州の町はデモ行進を除いて一応平穏な状態が続いたが、異変が起きたのは飛行場の方である。飛行停止の命令が出されてからわずか四、五日の間に狭い飛行場から掩体壕へ通ずる誘導路まで、並べきれない程たくさんの飛行機が増えていた。聞けば満州より逃げてきた飛行機ばかりということで機種も大小さまざまであった。

戦後何年間もこの事実とその意味を考えずに単純に十二練飛は運の良い部隊であったと思っていたが、戦記を読んだり、特に東航校で同じ区隊だった松本直栄(伊勢崎市在住)の満州からシベリヤヘ抑留された経験談を聞くに及んで、運の良かった理由が想像できるようになった。

あの時、新義州へ飛んで来た飛行機には在満航空隊の高級将校ばかり乗って脱出してきて、たまたまそこに居合わせた部隊、十二練飛と内地まで行を共にしたとすれば、その後南鮮を経て舞鶴へ上陸するまでの経過を考えれば納得できるのである。つまり新義州出発がソ聯兵の到着と半日違いで間一髪であったことも、三十八度線を越えた列車が我々の乗った列車で最後だったと聞いていたのも、輸送列車の二、三両に金モールの参謀や、将官、佐官ばかりが乗っていたからだと思うのは考え過ぎであろうか、まあ、当たらずとも遠からずというところであろう。


    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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