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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第五章 転属 終戦
 二 新義州 第十二練成飛行隊


現在は朝鮮民主主義人民共和国、北西端、鴨緑江下流に位置する国境の町で、対岸は中国の安東である。

大同へ赴任した時の約八十名も会文、宣徳と移動するにつれ別れ別れになり、この新義州へ着任したのは二十数名だったと思う、そして今考えてもこのメンバーがどうも一番アクの強い運中ばかりが選び出されたような気がするのである。

着任の申告をすませ宿舎へ入ると隣の部屋が乙種十五期生の在隊者であったが、たまたま新しい着任者の品定めをしているのが聞えてきた。
「あれは少飛出身者だろうか」「まさか、あのオツサン達は下士官学生にきまっているさ」とうとうオッサン扱いにされ大笑いしたが、乙種十五期生とは実際に教育期間が一年半違うのでそんな感じを受けても不思議はないが、どうしても十八才や十九才のヒヨコ伍長にはとてし見えなかったらしい。

この十二練飛でも在隊の乙種十五期生の中から”特攻隊要員が決定し編成が終っていたが、この隊も出撃寸前に終戦になり無事に復員することができた。その中の一人波多野伍長が戦後名古屋空港で日本飛行連盟の教官になっていたので、再会を喜びあい私は他の飛行クラブでライセンスを取得していたが早速入会し、その後、練習生の教育を手伝ったり、便宜を図ってもらったりすることになった。

さてその飛行場であるが幅三十メートル、長さ二千メートル位の狭い飛行場で、エプロンも狭く滑走中もし滑走路からはみ出せば忽ち列線の飛行機の中へ飛び込む危険性があった。

そして飛行機の主要諸元は次の通りである。
二式複座戦闘機 屠龍 キー四五
 全長 一六メートル
 全幅 一五メートル
 発動機 ハー一〇二  一、〇五〇馬力×二
 最高速度 五四七粁
 航続距離 二〇〇〇粁
 武装 二〇 ミリ機関砲 一
    七、七ミリ機関銃 一
    爆弾二五〇キロ 二個

今までは広い飛行場で操縦桿が左右両方にある飛行機ばかりに乗っていたのが、今度は複座といっても前後席で、操縦桿は勿論前席だけで後席は銃座である。共通点は双発ということだけで、 一式双発高練と大きさはあまり変わらないのにエンジンの馬力が二倍以上もある、これが最大の難問である。広い飛行場ならばよいがエンジン全開、離昇馬力の場合のトルク(回転力)及びプロペラの後流の影響は非常に大きくなり、ヒッカケられる率は倍増し、滑走路を踏み外せば先ず命は無いものと覚悟しなければならない。

今度は宣徳の場合とは大違いでビストで待槻中も全員目の色を変えて必死であった。今までのように手とり足とりの実地訓練はできないので、座学として主要諸元、計器の配列、離着陸の要領等々、細部にわたる注意事項を繰り返し繰り返し反復して、 一旦操縦桿を握ればもう誰にも頼る事はできず、自分一人だけであるから必死になるのは当り前である。

訓練初期に滑走路から飛び出し、列線の飛行機の中へ突っ込む事故があったが間一髪人身事故にはならずにすんだが飛行機は二機大破した。

そんな毎日を送っている時期に昭和二十年八月を迎えた。ソ聯の参戦、広島、長崎の原子爆弾のニュース等は、戦後判明した事実と比べてみて案外正確な情報が伝えられていた事に戦後数年たって驚いた。八月十日前後から悪かった気象情況が十五日には回復し暑い日になった。


    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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