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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第三章 北支 大同へ
 六 航法

ナピゲーションといって先ず次のような作業を実施する。
一、地図上のある地点から目的地のある地点までの方位を測り、地球の真北と磁石の北との誤差(中部地方ではマイナス六度)を引く
二、その飛行機に付いている羅針盤そのものの誤差(東西南北それぞれ値が違う)を加減する
三、針路上の風向風速を調べて風に流される角度を作図して偏流角を計算して羅針盤の方位を決定する
四、地図上の距離と飛行機の速度に風向風速を加えて所要時間の計算をする、迎え風なら遅くなり、追風なら早くなる
五、目的地までの気象情況を把握する
六、飛行コース上の地点標定を行なって偏流の確認、修正をする

熊飛校の教育隊で航法の時間に教官が
「お前達、九州から台湾へ飛ぶ場合、間違ってもコースから左へ外れては駄目だぞ、右(機首を振っていれば台湾が見付からなくてもその先は大陸だ、しかし左なら太平洋でジャボンだぞ」と冗談半分に言われたのを今でも覚えている。

現在の電波標識、レーダー誘導等が基本になっている航法に較べれば、ずいぶん乱暴な話であるが、とにかく数時間遅れの気象情報と羅針盤だけが頼りの戦争中の推側航法ではカンと経験だけがものをいったのである。因に現在の大型機では先程の計算問題はコンピューターヘデータをインプットすれば、後は自動換縦と並行して全部機械が処理してくれるのである。

この場合教官の言いたかったのは、このコースは常時偏西風が吹いている、だから嵐による偏流の修正をおろそかにするなということである。

さて大陸の航法であるが、飛行場周辺で離着陸をやっている間はよかったが編隊飛行の訓練で二時間、三時間連続して飛ぶ場合は当然距離が延びる、そして二番機、三番機として行動している場合は、慣れるまで自分の視界には長機しかなくて羅針盤や下の地形を見る余裕は更にない、時々助教から
「飛行場はどの方向にある」と聞かれて、
「ハイッ、あちらにあります」
「バッカヤロー、まるで反対の方向じゃないか、いつまでお客様のつもりでいるんだ」ゴツン、助教が右側に乗っていて左手の拳骨なのであまり痛く無く目から星がとぶような心配はなかったが、誰もがよく大目玉を頂戴したものである。勿論目分が操縦標を握っていない時は一生懸命地形地物を覚えるよう努力はしている、しかし日本内地の感覚しかない我々には、大陸の広さ、何十粁も目標が何もない荒野、たまに部落があっても何れも四角な土塀で囲まれた同じ形をしている、まるで海上航法と同じように地点標定に苦労したものである。

昭和四十年に軽飛行機のライセンスをとり、その後十年間に全国各地、離島を合め約六十ケ所の飛行場を歴訪することができたが、ここで大陸の航法で苦労したのが非常に役にたち、日本内地の空を心ゆくまで楽しみながら二十年の空白はすぐにうめることができた。

航法も本格的になり北京の南苑飛行場へ生地離着陸を兼ねて飛ぶことになった。当時の航法計算盤は簡単なもので、丸型の計算尺と思ってもらえばよい、現在は計算機の発達で計算尺は見向きもされないが、距離と時間、円とドルのような比例の計算にはこの丸型計算尺は計算機より便利なのである。今私の手元にある航法計算盤はもう少し複雑で、気温による計器速度の補正、粁とマイル、ノットの換算、そして針路に対する風向、風速を作図して偏流修正角が簡単に計算できるようになっている。

大同を出発してまず張家口へ針路を向ける、この辺りまでは今迄に見慣れた景色であるが張河口を過ぎて八達嶺が見えてくるといよいよ華北平原と呼ばれる大平原に出る。空中から見る万里の長城は実に雄大であり、書き現わすのには適当な形容詞がちょっと見当たらない、それは秋の中国大陸の空気の透明度は内地とはまるで違うので、何処までも何処までも果てしなく続いているのが、何時までも見えているからである。その次に大陸の河であるが、上流がどちらか分からない程大きく曲がりくねっていて、これも内地では見られない景色である。

平野部も想像以上に遠望がきくので、針路方向の荒野のまん中に大きな街が見えるが北京迄はまだ一時間かかる筈だから、あれはなんという街だろうと地図を探しても該当する街はない、結局空気が澄んでいるので二百粁以上も離れた街がすぐそこにあるような錯覚を起こすのである。内地にあてはめると豊橋辺りから東京の街がはっきり見えるという距離であるが、現在は残念ながら豊橋から名古屋、静岡も見えない程空気が汚れているのである。

とにかくそのような気象情況、途方もなく広い大地、戦争中であることも忘れて次第に変わる景色を眺めていたが更に我々が歓声を上げる程喜んだのが北京の街の美しさである。街の中心部に紫金城(現在故宮博物院)西に万寿山、昆明湖、東南に天壇等々、空から見る場合は汚れた住宅、スラム街はあまり見えないのでその美しさは目を見張るばかりである。厳しい教育訓練に耐えて飛行機乗りになれた事を改めて感謝したものである。

北京から帰った直後に助教の小林軍曹が作戦命令により揚子江方面へ空輸に出発した、そして間も無く九江付近で敵弾を受け、火だるまになりながら二套口の桟橋へ不時着し、全身火傷で戦死という訃報が届いた、悲しみの中で部隊葬が行なわれたが、この戦死については哀しい後日談があった。

昭和二十年八月、終戦になり最後の任地新義州から南鮮へ向かう列車に便乗した下士官があったが、車中でいろいろと話題に花がさいている時、たまたま小林軍曹の話が出た、話を聞いていたその下士官が
「その話、俺は現場に居合わせたが真相は全く違う」と言う、よく話を聞いてみると
「あれは火災が発生し二套口の桟橋へ不時着して操縦者と便乗者殆ど全員が全身火傷で戦死したのは事実だが、実はその火災は味方の誤射が原因で射撃を命じた隊長は責任を感じて後にピストルで自決をした」ということである。なんともやりきれない気持で、改めて四十一教飛出身の者は小林軍曹の冥福を祈った。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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