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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第三章 北支 大同へ
 四 キー五四 一式双発高等練習機

主要諸元 全幅 十七・九m
      全長 十一・九m
      総重量 三・九t
      エンジン ハー一三甲型
            四八○馬力x二
      最高速度 三七六粁
      航続距離 一〇〇〇〜一三〇〇粁

多用途機種として開発され、操縦、航法訓練射爆訓練、通信訓練、そして輸送機として広く使用されていた。

訓練の第一歩は地上滑走から始まる、現在は大型機、小型機共に機首に車輪がついている前輪式になり、翼端さえ気を付ければ自動車を運転するように簡単に地上滑走できるが、当時はプレーキの使用をなるべく避け左右のエンジン回転数の差と方向舵を併用してコントロールした。

赤トンポと呼ばれていた九五式中練をやっと卒業した我々には丁度軽自動車からいきなり大型パスを運転するようなものである。

その訓練第一日目の出来事である。助教は少飛第七期出身の小林軍曹と定まり、操縦装置、計器板上のたくさんの計器について説明をうける。練習機の計器の三倍はあるだろうか、航法用の計器はあまり変わらないがエンジン計器が増えてそれが二倍になるので計器板がいっぱいになるのである。始めて操縦席に座ると何もかもあまりに違い過ぎて今迄受けてきた教育がまるで空白になったような気がする。

助教の指示でおそるおそる左右のエンジンを二本のレバーで操作してみる、まっすぐ、右へ、左へとよちよち歩きをしていると急にガクンと止り右に傾いた、助教が慌ててエンジンをふかすが飛行機ほピクともしない、下へ降りてみると急速造成のかなしさ、柔らかい砂地に右車輪が半分程埋まっている。

結局その砂地からの脱出に半日かかり
「この飛行機は重いから不整地を滑走する場合は充分気をつけるよう」という注意を聞く頃には日が暮れかけた思い出がある。

地上滑走で機体の大きさ、操縦席からの目の高さ、中練の時の二倍強の高さになるので慣れるのに暫くかかる。左右のエンジンをコントロールして自分の思う方向へ機首を向けるのも、約四トンもある機体はその惰性の計算が一苦労である、九十度方向を変えるのに七十度であったり、百二十度になったり全くエンジンこそいい迷惑である。ブースカブースカとむやみにエンジンばかりふかして広い飛行場をよたよたと地上滑走の訓練をした。

さて、いよいよ離着陸の訓練が始まった。なぜか飛行機は昔も今も、洋の東西に関係無く多発機もしくは複座機の場合正操縦席は左側である。

高等練習機とはいえ実用機である、フルパワーで離陸する時の迫力は十二分に我々を満足させてくれた。この飛行機の特性として三点着隆がちょっとむつかしいという欠点があり、接地速度の処理を誤るとすぐ大きなバウンドになる危険性があった。

訓練が始まり環境に慣れると心配した程ではなく、案外早く飛行機にも慣れ離着陸の要領も覚え予想よりずっと早く単独飛行が許可されることになったが、又してもその第一日目にアクシデントが待っていた。

双発機の単独飛行は三、四名互乗して空中で操縦を交代する方式で、その日の搭乗順序は一番京都出身の出原、二番仙石、三番大分出身の板井ときまっていたので、正操縦席出原、副操縦席板井、後部席に私が乗って離陸した。そして二回目の時だったと記憶しているが降下速度の処理が悪く、接地速度が早過ぎるが大丈夫かな心配する暇もなく超特大のバウンドをしてしまった。私は後部席といっても操縦席入り口の通路に中腰になって離陸からずっと見学していたが、アッと思った時には前方窓から地面が消えて空ばかりになり、次の瞬間には地面ばかりになる。

飛行機の窓は案外小さく、操縦席の後ろから見た場合はもっと視界が狭められるので恐怖感は倍増する、力いっばい手足をふんばっていたので跳ね飛ばされずにすんだ。接地速度が早過ぎると浮揚力がまだ残っているので接地の反動でもう一度浮き上がってしまうのであるが、大きなバウンドをした時の処置はかなり高度な技術を必要とするのであるが、未経験者ばかり互乗しているので慌てて行なった操作は全部裏目に出て、バウントが小さくなるどころか益々大きくなり、とうとう三回目には地面にたたきつけるような形になり脚は折れ、翼端は着く、プロベラは曲がる、土煙はもうもうと上って何も見えなくなる、それでも三人共無事で「燃料コック、オフ」「メーンスイッチ、オフ」と事故の際に絶対に行なわなければならない処置だけは教えられて居た通りに確認してから飛行機から跳び下りた。

幸い火災にはならずにすみ、脚とプロペラ、翼端の破損、人命異常なしという事故であったが、地上滑走のトラブルと共に最初から貴重な体験を二回もした訳である。

板井と私の単独飛行は当然その日はお流れになったが、翌日になれば昨日の恐怖感は忘れたように単独飛行にチャレンジした。

熊谷の飛行学校を卒業してから復員するまでの間で、この大同の四ケ月間が環境、機材、その他すべてにおいて最も恵まれていた時期で、全員が技術の修得という一つの目的に向かって最大限に打ち込むことのできた充実した日々であった。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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