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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第三章 北支 大同へ
 三 隼第一八四三四部隊 第41教育飛行隊

第四十一教育飛行隊
昭和十九年五月に浜松で編成された双発機の訓練をする教育飛行隊で大同へ展開したばかり、その第一回の訓練生が私達であった。それを聞いて到着当日の盛大な出迎え、着任式も納得がいった。

新設部隊であるから飛行機、各種機材、被服全部新品という豪華版であり毛布一枚も古い物はなかった。八月に一揃い支給された夏物も九月中旬にはもう一度そっくり冬物と替わり
「始めてのお客は軍隊でもサービスがいいな―」と陰口をたたいたものである。

兵舎は壁の厚みが三十センチもある中国式の土で固めた低い粗末な建物であったが、零下二十度三十度になっても大同炭鉱は近いし、航空隊は自動車を常備しているので石炭を無制限に使うことができるので、日常生活はこの兵舎に居るかぎり内地の学校生活よりはるかに楽であった。

しかし、飛行場のピスト、飛行機に搭乗している時は暖房が無いので長時間飛行する場合に弁当を持っていても、丁度冷凍室の保存食品と同じ状態に何でも凍ってしまい、冬の大陸の厳しさをいやという程味わうことになった。操縦の訓練生は整備の手伝いをしても、せいぜい飛行機を押して移動するか最初のペラ廻し程度である、ところが整備兵は零下二、三十度ともなれば実に大変な重労働を強いられる事になる。

毎日飛行演習が終るとエンジンのオイルを全部抜き取り、翌日はこれを二百度位に暖めて注入しなければプロペラの手廻しも出来ないのである。十一月、十二月と寒さが本格的になる頃、丁度課目が進んで払暁、薄暮演習が実施されるようになったが、縁の下の力持ちというこの仕事を頭の下がる思いで見守ったものである。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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