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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第三章 北支 大同へ
 二 大同

山西省の北部にあり中国の戦国時代から軍事、交通、商業上の要地として重要な都市で北京―包頭、大同―風陵渡の鉄道の分岐点である。市の南西部には無限ともいわれる埋蔵量をもつ大同炭鉱があり、現在は重要な新興工業都市になっていると聞く。

又先頃NHKのシルクロードで紹介された雲岡(ウンコウ)の石窟は桑乾河の支流、武周川に臨む岩壁に大小五十三の石窟を□ち石仏は約五万一千体彫られていて千五百年余の歴史があり、甘肅省敦煌(トンコウ)石窟及び河南省洛陽の竜門石窟と並んで中国の三大石窟と称され世界的に有名である。但し当時の我々には飛行機の事しか頭になくてこの貴重な遺跡を充分鑑賞するだけの余裕が無かった事を四十年の歳月を経て非常に残念に思うのである。

市街を少し離れると今もあまり変わっていないと思われるが、緑の無い荒椋とした原野を行くラクダの隊商を見るにおよんで、当時は遠く地の果てまで来ているような感じがしたものであるが、シルクロードの壮大なスケールを考えれば大同はまだ大陸の入り口である。所詮島国に住んでいる我々日本人にとってあの大陸の広さは想像をすることすら無理のようである。

大同炭鉱はその当時技術関係者は殆ど日本人だったようであるが、その住宅が広大な土地に定規で線を引いたように道路が走り、同じ形の家が見渡す限り整然と並び、その規模の大きさと建物のきれいな色が周囲の殺風景な景色とアンバランスで、今なら何処へ行っても住宅団地は珍しくないが四十年前には非常に印象的であった。

飛行場はその近くに急増され、我々の四十一教飛が最初の駐屯部隊というので炭鉱関係者の人達から大歓迎を受けた。現在の飛行機の騒音公害とは反対に日本の飛行機が毎日上空を飛んでいるということは実に心強い限りだと感謝された。しかし我々にしてみればいささか後ろめたい気持である、なにしろ飛行機は武装なしの丸腰、乗っているのはこれから双発機の訓練を受ける「ヒヨコ」ばかりである”とはいうものの始めて大陸へ渡ったばかりの者にとって荒野のオアシスのような全く有難い存在であった。

少年飛行兵は一般の兵隊に比ぺて当然年少であり、稀少価値があったのかその後朝鮮の水原、新義州、そして終戦後に南鮮の郡山と何処へ行っても在留邦人の人達から可愛がられたものである。兵隊達はそれを羨ましがり、飛行兵は得意満面でせっせと外出したものである。

飛行場は市の南西に広がる草原の一部を整地した飛行場で上空から見なければ外周が分からない程広く、標高が約千メートルあり、高原地帯なので夏は短くて九月は内地の十一月頃の気温になった。飛行場の草原には正式な学名は知らないが一面に「ノモンハン桜」と呼ばれていたカサカサで水気の無い草が蕎麦の花に似た花をつけていた。

秋に兎が飛行場に穴を掘るということで部隊全員で飛行場を囲み、真ん中に飛行機に被せる大きな偽装網を張って兎狩りを実施したが、網にかかったウサギがなんと百数十匹、大狐が数匹、これは正に大陸ならではの圧巻で凄まじい迫力であった。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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