「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫
全文掲載 |
これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
第三章 北支 大同へ
一 引率者
昭和十九年七月下旬、思い出多い飛行学校の正門を後にして籠原駅へ向かう、ここで輸送指揮官の指揮下に入り輸送日程の説明を受けた。朝鮮の一部、満州、北支とそれぞれ行く先の違う混成輸送部隊で、北支へ行く我々が最後まで残り、天津が一応終点であった。
任地発表の際、引率者に指名されてもその実態を知らないので軽い気持でいたところ、最終目的地の大同へ到着して着任の申告をするまで、実に大変な任務であった。更に負担を倍加された原因として、他の二十数車両の列車長は全部将校、下士官なのに何故か我々の車両だけは最後まで上等兵である私が列車長であった。その為に途中停車駅の度に列車長集合の号令がかかり、その度毎に上級者がいないから云々の注意と共に他の列車長より余分に何か仕事を命ぜられたが、その反面、目的地まで同期生ばかりで行動しているので列車進行中はまるで旅行気分でのんびりすることができた。内地のうちは主要駅で国防婦人会のお茶のサービスもあり、客車でもあり、これから戦地へ赴く旅にしては全く明るいムードで下関へ到着した。
始めて乗った輸送船にうろうろして内地を離れる感傷に浸っている暇もなく、早くも
「引率者上甲板に集合」とスピーカーが呼んでいる、甲板に出て集合すると
「アメリカの潜水艦が玄海灘にも出没するから釜山到着まで対潜見張りを厳重にせよ」という命令である。船室は暑いし丁度これ幸いと釜山へ着くまで玄海灘の荒海を見詰めながらやっと戦争というものを身近に感ずるようになった。我々は対潜見張りについたというものの、のんびりした船旅で釜山へ到着したが、前後して下関を出発した南方行きの船団は何回も雷撃を受け同期生がたくさん乗っていた白鹿丸はバシー海峡で殆ど全員帰らぬ人になっている。
戦後の話になるが少飛十四期生富山大会で東航校同班の戦友辻政雄(久留米市在住)と再会して帰路名古屋まで行を共にしたが、その車中で白鹿丸沈没の詳細を聞くことができた。そして彼こそ千数百名の乗船者のうち数名しか居なかったと云われていた貴重な生存者の一人で、五十四時間漂流し二百粁も流された場所で奇跡的に駆逐艦に助けられたそうである。昭和十九年の夏は内地を離れたら直ちにアメリカの制海圏と云われる程戦局は悪くなっていたのである。但しそれはすべて戦後に知ったことである。
釜山到着後は客車ではなくて馬糞臭い貨車に乗せられ朝鮮半島の縦断が始まった。大陸横断鉄道は広軌で貨車も内地のものより大きくプラットホーム以外で停車されると乗り降りに大変苦労をさせられたが、それでもアンペラ敷で横になって眠れるので長旅にはむしろ客車より楽な旅ができるのである。
ソウルの近くの竜山という兵站駅の出来事である、食事と一緒に加給品としてタバコがついていた。仲間の連中がニヤニヤしながら私がどうするか見ている、これは私も迷った。なにしろ我々はまだ未成年者で被教育者の身分である、後であの時のタバコはどうしたと輸送指揮官に質問される恐れは充分あるが、僅かな停革時間のどさくさに紛れて「よ―し、全部持って行け」と車中で欲しい者に分配してしまった。その後しばらく列車長集合のある時はなるべく目立たないようにしていたが、どうやら何も言われずにすんでほっとした。
旅も三日、四日と過ぎ食事当番等は交代で受け持ってくれるが、責任者には交代は無いので停車の度に列車長集合で走り回る毎日が続いた。車窓から見る風景も南から北へ移動するにつれてだんだん異国ムードが強くなり、国境の町、新義州を過ぎると鴨緑江の対岸は安東である、夜中にこの国境を過ぎいよいよ満州へ入った。
夜が明けてみると話に聞いている広大な草原を列車は走っている、なるほど四方を見回してもほんとに何も見えない、それでも駅だけがぼつんぼつんとあり食事も豆飯が支給されるようになった。日本の内地で生れ育った者にとって、
一日中汽車で走っても夜明けの景色と全然変わらないという大陸の広さにはただ驚くばかりである。朝鮮、満州とそれぞれ目的地へ到着した連中が輸送部隊から減り、車両数も大分少なくなってきた。
中国との国境、山海関へ近づくと万里の長城の東の端、関城が見えてくる。いよいよ戦場へ到着したことになる、満州の豆飯に代わり今度は高梁飯になったが、これは始めて口にする者はなかなか食べられるものではない。途中の沿線の景色は一変して戦闘地区の生々しい戦跡を随所に見ながら無事天津へ到着することができた。
ここで輸送部隊は解散になり、第四十一教育飛行隊からは小池曹長(群馬県勢多郡宮城村在住)の出迎えがありその指揮下に入る。
久し振りに列車から開放され、大陸へ渡って始めて歩く天津の街、ここまで来ればもう異国情緒どころではない筈なのに、そこは若さの特権、のんびり兵站宿合に入りゆっくり手足を伸ばして休むことができた。
この天津には今でも忘れられない思い出が二つある。一つは蝿の大群である、現在の中国にはあの物凄い蝿はいないそうであるが、草むらで真っ黒に渦を巻いていたり、網戸にはこれもビッシリの蝿で黒くペンキでも塗ったように見える、
朝、ザーザーという音で目を覚まし「今日は雨降りだな」と思ったら大間違い、網戸にビッシリついている蝿の音であった。とにかく話には聞いていたがこれには参って「えらい所へ来たもんだ」と一同ぼやくことしきりであった。
もう一つは自分の事である。天津駅で輸送部隊が解散して小池曹長の指揮下に入り、駅を出発する迄は当然自分の責任として指揮をとっていた。駅から兵站宿舎までの経路を指示され、その宿舎へ向かう途中の事である。
「おい石倉、ちょっと指揮を代わってくれ、俺は列外へ出るから」この石倉(東京世田谷在住キャノン勤務)とは熊飛校教育隊から復員船で舞鶴へ上陸する迄の一年半、ずっと寝台を並べていた戦友である。何故ここで隊列を離れたかといえば、京都に在学中、北京語の教育を受けていたのが任地北支希望の理由だったので、天津は北京語が通じる筈、どうしても一度試してみたかったのである。
丁度折りよく同じ方向へ行く馬車が通りかかったので早速話かけてみると少しは通じるみたいである、のんきなもので馬車と並んでゆっくり歩きながら単語を思い出して並べていると、中国人が「何処か身体が悪いか」と質問してきたがこれは身振りも加わっているのでよく分かった、そこで一生懸命返事を考えていたら「腹が痛い」という言葉を思い出したので、こちらも身振りを加えて返事をするとほんとうに言葉が通じたのかどうか分からないが今度は「馬車に乗れ」という、まさか馬車に乗るわけにはゆかないが有難く重いトランクだけ乗せてもらい、隊列から離れること四、五百メートル、軍刀だけを手にしてぶらぶら宿舎まで歩いた。
現在の中国旅行ならこんな事は何も問題はないだろうが、治安は一応保たれているとはいうものの戦争も末期状態の中国の街を一人で歩くという危険性を考えてもみなかった思い付きの行動であった事と、自分が引率責任者であった事を考え合せると今考えても冷や汗ものである。下手をすれば大同到着と同時に処罰が待っていたかもしれないのである。
その後にも「若さの特権」みたいな解釈でずいぶん無茶な事をしたが体力的な事は別として、他はすべて、思慮にかける、物事を知らない、経験不足と要するに未熟という言葉と同意語だと思う。そして現代の若者達も形は変わるが同じような事を繰り返しているものと思う。
さて、同じ輸送部隊でも別行動であった特別操縦見習士官第二期生と、第十五期生も合流し、最終目的地大同へ向かって天津を出発した。八達嶺の万里の長城を望む頃から汽車はかなり急な坂道をあえぎながら上って行く、張家ロヘやっと到着小池曹長から
「停車時間が長いから全員をプラットホームヘ降ろして体操をさせよ」と命令される。
もう大分標高が高くなっているとみえ暑さはしのぎ易くなってきた、天津を出発して三日目、熊谷を出てから十日目に我々の長旅もいよいよ終りが近ずいた。
大同駅から部隊より出迎えのトラックに分乗し衛門手前で下車、久し振りに服装、隊伍をキチンと整える。部隊全員が整列して出迎えてくれる前を堂々と行進して営庭に整列、笹倉部隊長に申告することになった。先着の宇都官飛行学校出身の同期生も加わり十四期生六十五名、十五期生十六名合計八十一名、特別操縦見習士官第二期生は六十名であった。特操の金原少尉の申告がすむと次は私の番である、
「陸軍上等兵、仙石敏夫以下八十一名、第四十一教育飛行隊に転属を命ぜられ、只今着任致しました、ここに謹んで申告致します」この申告の要領はいつも必要なので誰でも慣れている、しかし部隊全員の儀式として行なうのは私としては勿論始めての事である。
八月三日だったと記憶しているが、八月一日付で兵長に進級しているが輸送途中であり、階級章も支給されていなかったのでそのまま申告することになり、かなリアガッていたと思うが引率責任者としての任務を無事果たす事が出来た。三年半の軍隊生活を振り返ってみて、この日の晴姿だけは家族にも見せたかった檜舞台の一日であった。
ところが任務からやっと解放され、元通り「その他大勢」という被教育者にもど緊張感が解けると輸送途中の不規則な生活、気疲れに加えて食物、水の変わったせいもあり、二,三日フラフラの状態が続いたが、戦友達の親身の世話で医務室の厄介にもならず、すぐに健康状態も回復し飛行演習の始まるのを待つことができた。
同期生の引率といえば聞えはよいが実際には雑役係である、軍隊の学校教育は非常に厳しいが雑務は殆ど課せられないので、前後十日間程の任務であったが卒業と同時に学校で教えられなかった事を勉強させられた訳である。
昭和62年発行
「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載
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