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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが昭和62年、
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第一章 東京陸軍航空学校
 一 入校

当時 東京都北多摩郡村山村、現在、武蔵村山市になっているが、詩人国木田独歩の『武蔵野』の描写にそっくりな松林の奥に衛門があり、 一歩中に入ると砂ぼこりにかすんで端のみえないほど広い校庭、整然と並ぶ建物、まったく別世界へ来た感じ、身の引き締まる思いがする。

『東京陸軍航空学校入校予定者ニ決定、昭和十七年四月五日着校スベシ』大切なこの通知書を受付へ提示すると「あれが本部その右に見える第七中隊へ行け」と指示を受ける。今から四十数年前のことであるが昨日のことのように思い出す。本部へ通ずる道路を行くと両側の校庭で半年前に入校した第十三期生が体操の訓練をしていたが、そのきびきびした動作、演技のむつかしさを軍隊の衛門を始めて入った直後に見た印象は実に強烈であった。聞けば神宮外苑(神宮球場)で行なわれる休操の祭典に出場するための特訓中だそうであるがこれから半年間で自分達がほんとにあんな体操ができるだろうかと早速不安の念を感じたものだが、まさか半年後にその時に見た体操(当時『空戦』と呼んでいた)の選手に選ばれて神宮外苑に出場しようとは思ってもみなかったことである。再度行なわれた厳重な身体検査も無事合格しいよいよ入校確定となる。

所属は第七中隊第二区隊第四班、区隊長大道少尉、班長大森軍曹、後に大川曹長であった。昭和十七年四月第十四期生入校当時の基本編成は次の通りである。
一班二十四名、 一区隊ニケ班四十八名、一中隊四ケ区隊八ケ班合計百九十二名。第一中隊から第八中隊が十四期生、第九中隊から第十五中隊が十三期生でこの時入校したのは千五百二十名である。

大東亜戦争が始まって四ケ月、まだ当時の陸軍生徒は非常に恵まれた環境にあり、兵器としては三八式歩兵銃と帯剣だけであるが、被服、学習用具等は民間の学生ではとても考えられない程贅沢なものであった。被服は整頓棚を定められた寸法にキチンと整理しないと入り切らない程であり、別棟の自習室の机の中には墨、硯、筆に始まり普通学、軍事学の教科書、手簿、航空兵操典、体操教範、作戦要務令等いわゆる典範令一式、地図、筆記具、簡単な製図用具等実に至れり尽くせりである。身のまわりの私物を整理して家へ送り返し、始めて着る軍服そして難解な軍隊用語、例えば編上靴(ヘンジョウカ)襦袢袴下(ジュハンコシタ)物干場(プッカンジョウ)等々まごまごしながらも晴れの入校式を迎えることができた。

現在一人のパイロットを養成するのに数億円かかると言われているが当時としても大変な費用を我々にかけたのである。その後戦局はどんどん悪化していったので被服装備は任地が変わるたびに減っていったが東航校と熊飛校在学中は被服、設備その他は最高の状態だったと思う。当時支給されていた被服の員数は今でも覚えているので列記してみると、
軍服及び襦袢袴下、夏冬共に第一装から第三装各三着宛、軍帽二、戦闘帽一、体操衣袴一、外套(ラシャ)一、雨外被一、編上靴二、運動靴一「営内靴一、上靴(スリッパ)一、背嚢(ハイノウ)一、雑嚢一、防毒面一、剣道防具一式、被服手入れ用具(糸、針、靴刷毛等)ざっとこのくらいである。次に自習室の机の中には、墨、硯、筆に始まり普通学の国語、数学、歴史、理科の教科書、ノート、軍事学の教科書、典範令一式、地図、簡単な製図用具等、とにかく至れり尽くせりであるから私物といえば時計、財布、歯ブラシ、下着、それだけである。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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