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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第二章 熊谷陸軍飛行学校
 八 任地発表 卒業


夏の飛行兵の服装は、といえば木綿の襦袢、袴下、飛行服、半長靴、飛行帽の下に目だけ出る木綿の白い頭巾をかぶり、手袋をはめ、落下傘の縛帯をつけるが、風防で直接の風圧を遮っているだけの操縦席は二千メートル以上高度をとれば真夏でも寒くなってくる。しかし夏の飛行場の暑さは又格別である。どんなに暑くてもメモをとる時は手袋をはめたままで字を書く訓練をしたものであるが、半袖シャツでクーラーの利いた部屋で尚暑いといっている現在を考えると人間の身体の順応性というものは実に不思議なものである。

その炎天下の草いきれでしっとしているだけで汗びっしょりになる頃には、なんとか中練を乗りこなせるようになり、最後の話題は戦闘、爆撃、偵察の分科と任地である。自分としては大型機に内定しているので、分科爆撃、任地は北支と希望を提出しておいた。

七月二十日の卒業を目前にした十七日午前中、三十機による編隊群の卒業飛行を最後に一切の飛行訓練が終り、午後任地の発表が行なわれた。

内地勤務から外地勤務の順序で発表があり、自分の名前はどこで呼ばれるかとわくわくする。
「北支派遣、隼第一八四三四部隊要員を読み上げる、最初に呼ばれた者は引率者であるから、後で事務室まで名簿を取りに来い」と前置きして最初に呼ばれたのがなんと、 「仙石敏夫」である。これにはいささか驚いた。軍隊では正式に名前を読み上げる場合序列の順序で呼ばれるのである。

発表が終るとやはり一瞬騒然となり、行先別のグループが一団づつ出来上がる、私の所にも集まって来て早速詮議が始まった。
「北支といっても広いが行く先は何処だろう」
「隼というから戦闘隊だろうか」
「いや、俺達は双発機の筈だからそれは違う」
「仙石、早く事務室へ行って聞いてこい」
と大騒ぎである。とにかくこれで約六十名の引率者という責任ができた訳で、事務室へ名簿を受取りに行き説明を聞くと、 「隼」とはこの場合飛行機の名称ではなくて、北支派遣軍の航空部隊の冠称であり、第四十一教育飛行隊という双発機の教育をする部隊で、行先は北支の大同と教えられる。

東航校の時と同じく又しても運良く自分の希望がかなえられた。晴れの卒業式は母と妹が上京して列席してくれることになり、二年半の学校生活に無事終止符をうつことが出来た。

そして翌日、 一泊二日の帰省を許可されたが、その頃の汽車では西は名古屋周辺が最大限の距離で、朝熊谷を出発して自宅へ到着するともう夕方である。家族は夜行列車で帰り朝には自宅へ着いている筈と急いで帰宅してみると、家の前に出征兵士を送る花門が立っている、これが私を送る為に立てられて居ると言われても、どうにも実感がわかずまことに妙な気分であった。そんな事にはお構いなく近所の人達、身内の者が集まり盛大に壮行会が開かれた。

休む間も無く翌朝は大勢の人が家の前に整列して待っていてくれる、予想もしていなかったこの見送りの人達に挨拶の後、白山神社へ参拝、武運長久を祈願して駅へ向かう。その駅へ着くと人数も増えかなり大勢の人に盛大な見送りを受けた。

白山神社から駅へ歩きながら自分達は年も若く志願して学校に入り、教育訓練を終って任地に赴く途中であるが、家族のある人が召集を受け、始めて軍隊へ行く時はどんなにつらい思いをするだろうと、そんな事ばかり考えていたのを覚えている。いずれにしても盛大な見送りを受ける程余計に別れはつらいものだと思う。なにしろ普通の帰省のつもりで帰ってきたのに予期せぬ見送りを受けたが、それでも見た目には堂々として居るように振るまい対面は十分保つ事が出来たと信じている。ところがその後がいけなかった。

名古屋駅へ到着して予定の列車を確認してみると、その日に限ってその急行が取り止めになっている。この時は学校生活最後の休暇で汚点を付けるのかとちょっと青くなった。

現在と違って東海道線でも本数が少ない時代の話である。名古屋駅迄送ってきてくれた近親者も驚いて駅で時間表を調べてくれたが、 一時間後に準急が一本あるだけである。それに乗ると東京駅到着から高崎線上野駅発の終列車の発車時間迄に十数分しか無いが他に方法ははないのでその列車に乗る、なにしろその頃は準急で八時間はかかったが普通休暇で帰校する時は時間のたつのが早く感じたものだが、この時ばかりは東京迄の時間の長いのに閉口した。

新橋を過ぎるともうデッキの所で降りる準備をしていると顔は知らなくても一見して熊谷へ帰る飛行兵と分かる連中が三、四名寄ってきた。東京駅のホームへ列車が止まると同時に走り出したのは飛行兵ばかり、二十名はいただろうか、同じ区隊の者も居るので先ずは一安心、結局東海道沿線は大部分がこの列車に乗っていたのである。

ホームからホームヘ全力疾走、発車寸前の電車に飛び乗る、今も昔も上野駅はホームが複雑であり、夜行列車を待つ人の行列がある、その行列を突き切って高崎線のホームヘ我々の一団が嵐のように駆け抜ける、発車のベルは既に鳴っているが滑り込みセーフ、最後の一人が乗ると同時に発車した。この列車に乗りさえすれば籠原駅へ午後十一時三十分頃到着、歩いて十五分、門限の十二時には充分間に合う。東海道線組一同やっと汗を拭く余裕ができた。

戦後になっても上野駅を通る度に熊谷陸軍飛行学校の入校、卒業どちらも苦い経験をした事を思い出すのである。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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