「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫
全文掲載 |
これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。
仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
第二章 熊谷陸軍飛行学校
七 訓練中ある一日
その頃、助教の吉野軍曹が南方へ転出になり、公認として航空乗員養成所出身の若い中村伍長着任した編隊飛行の訓練が始まり三機がチームになり編隊長機、二番機、三番機と順次交代しながら訓練を始めた。
双発機の編隊は機体、馬力が大きいのでかなり苦労をしたが中練の編隊飛行は思ったより早く単独が許可され、慣れるに従って急降下、超低空と振り回される、利根川は橋が少ないので超低空にはお誂え向きの場所で、編隊長機が水面すれすれに飛ぶと二番機、三番機は半機高、少し上を飛んでいるが堤防の高さである。これは特殊飛行より危険性は非常に高い、ところが訓練の成果は命がけで編隊長機についてゆくので技量は急速に向上する。
飛行機の場合、高度さえあればもし失敗しても回復操作をする余地がある、しかし低空の場合は失敗、即、命取りになるのは分かっているが人間の心理というものは面白いもので恐怖感はあまり感じないのである。今あんな超低空をやったらさぞ飛行場へ抗議の電話がかかってくることだろ。そんな荒っぼい訓練の毎日であったが長機に振り放されずにびったりついたまま飛行場へ帰って来た時は、特殊飛行とは違った満足感を味わう事が出来た。
ところが計器飛行はその反対で、操縦席に幌をかけられ計器だけを頼りに水平飛行、旋回、上昇、降下と最もシンの疲れる訓練である。
そんな或る日、搭乗順序が一番最後の日であった、離陸をして「幌かぶれ、高度千メートル、方位百四十度水平飛行」と命令される、ところが何分たっても方向を変える指示がない。通常離陸すると三角形に進路を変えて飛行場へ帰るのであるがこの日は外が見えなくてもかなり遠い所まで来たなと思いながら計器の針と悪戦苦闘していると「幌とってよし操縦桿はなせ」ときた。まずやれやれと幌をとって下を見ると大きな工場と見渡す限り町並みが続いている、これは東京迄来たんだなと思っていると、ある工場を中心にして助教が旋回を始めた。
工場からも大勢の人が手を振っている「ハハーン
これは助教が勝手に郷土訪問飛行をやってるな」と解釈し、お客様気分で下界を見下ろしているうちに「アッ」と驚くものが目に入った、それは助教の目指す工場の近くに高射砲陣地があったのである。よく見れば丁度よい目標とばかりに高射砲、機関銃一斉に我が機へ砲身を向けているではないか、勿論実際に弾が飛んでくる訳ではないが、あまり良い気持のものではない、それに低空で旋回しているので飛行機の尾翼に大きく書かれたΘのマークで熊飛校とすぐ分かり十三という機番も読めるだろう、おそらく学校へ通報が来るだろうと思った。助教はそれを知ってか知らずか何度も旋回を繰り返しバンクを振って機首を返した。そして「今のことは誰にも言うなよ」と念を押され飛行場へ帰ってきた。
しかし悪いことはできないもので遠い所まで足をのばし過ぎたので時間超過になり、全機着陸して整列が終っていたのである。その場はなんとか苦しい答弁ですんだらしいが心配した通りにやはり通報があり、この一件は明るみに出て中村伍長大目玉をくったという結末であったが、私としては戦争中市街地の上空の低空飛行はこれが最初の最後であった。
昭和62年発行
「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載
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