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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第二章 熊谷陸軍飛行学校
 五 単独飛行

五月上旬、飛行場の草の緑が目にしみるようになると、ぼつぼつ単独飛行が話題になる。正式に区隊長から成績のよい者から順次単独飛行を許可する旨が発表されると、さあ大変、誰が一番先になるか、お互いに俺こそ一番と口にこそ出さないが内心わくわくしながらその日の来るのを待った。そしてその記念すべき日は以外に早くやって来た。

四名一組の操縦班の搭乗順序は毎日交代し、四日目毎に一番乗りの順番が回ってくるが丁度一番乗りの日であった。いつものように助教同乗で離着陸三回目が終った時である、伝声管から
「ピストヘ帰れ」という助教の声、その日の三回の離着陸は自分なりに満足出来る出来具合で、もしやという淡い期待は持っていた、しかし現実になってみると一瞬全身がカーッとするような緊張感を覚えピストヘ近ずくにつれ鼓動が聞えるような気がする。助教はさっさと前席より下りて整備員に赤い吹き流しを付ける指示をして、いとも簡単に
「単独飛行、離着陸二回、気を付けて行ってこい」
まだ私達の区隊では単独の許可は数名しか出ていない時期なので、ビスト全員の注目を集めているかと思うと、その時の気持を表現する適当な言葉が未だに見付からない。

今迄いつも前席に助教の後ろ姿があったのが、一人になるとやけに前方がよく見えるような気がする、自分一人で飛行機を動かすのはこの地上滑走から始まる。おそるおそる出発地点へ向かって滑走しながら、もう一度離陸の諸元を大声で確認して合図の白旗を待つ、赤旗が白旗に変わった、「シュッパーツ」もう他の事を考えている余裕はない、覚悟をきめてスロットルレバー全開…‥‥よしなんとか直進できた、右下に観音山を見ながら第一旋回、高度三百メートル水平飛行、第二旋回、速度計、高度計、ブースト計、回転計、コンパスそれぞれ異常なし、前方警戒よし、飛行場異常なし。やっとここで四周を見回す余裕ができて「俺は 一人で飛んでいるんだぞ―っ」と大声でどなってみる、喜んでいるのも束の間すぐ第三旋回、第四旋回、着陸と自分でやらなければならない、冷や汗をかきながらそれでも無事二回の離着陸を終リピストに帰って報告をする時には足がふらつくのではないかと心配したものである。

この日、他の三人は最初に私が単独飛行の許可が与えられたのに刺激されてか、普段の実力が出せず、その日は私だけがひそかに優越感を満足させることができた。教育隊のしごきの厳しさもこの単独飛行の許可される頃がピークで、事実少しの気の緩みも事故につながり、死に直面しているので気合いの入れ方も一段と熱が入り、
『目のくらむような青春』という言葉がもし絵になるならそのものずばりであっただろう。戦後になって写真を年次順にならべてみると、この時の写真はげっそりと痩せていて訓練の激しさを目でみる思いがした。この他にも機種が変わる度に単独飛行をしたが、大同では一式双発高練で直前に事故に遭ったが、悪運強く怪我もしなかった、昭和四十年にセスナの単独では操縦にはあまり不安はなかったが英語に弱いので管制官との交信にマイク持つ手が震えたものである。しかし最初の単独飛行の感激だけは生涯忘れることはないだろう。

離着陸の単独飛行ができるようになると課目の進み方が急ピッチで早くなる、空中操作、特殊飛行、編隊、生地離着陸(始めての飛行場で離着陸を行なうこと)と進み、その間に訓練中二名殉職という事故があり、学校葬が行なわれた。しかしそれを悲しんだり、悩んでいる暇もなく翌日からすぐ平常に戻った。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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