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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第二章 熊谷陸軍飛行学校
 四 場周離着陸

操縦教育第一日慣熟飛行の日がやってきた、緊張と興奮で
「仙石上等兵、第十三号機同乗、課目慣熟飛行」始めての搭乗申告の声にも力が入る、整備教育で試運転はしたが、動くのは初めてである。助教の吉野軍曹から伝声管で
「手足は軽く副えておれ、これから離陸する」声が終ると同時に身体が後ろにグッと押し付けられ、走り出したと思う間もなくフワリと空中に浮いた。格納庫がどんどん小さく見えるようになり広い学校の敷地が箱庭のように見えてくる、夢中になってあたりの景色を見回す、あれが荒川、あそこが熊谷の街、内心心配していた高さによる恐怖感は全然なくむしろ初体験は非常に快適である。高度をとり終った助教が
「サア、俺は手足を放すぞ、自分で思ったように操縦してみろ」という声に今迄のお客様気分からいっぺんに現実に引き戻される。

おそるおそる水平飛行、旋回をやってみる、
「まっすぐに飛べ、左へ頭を振っていくぞ、右足をもっと踏め」
「頭が下がる、アッ上りすぎた、もっと舵を柔らかく」言葉の意味は分かっても飛行機の姿勢はどうなっているのかさっばり分からない、勿論最初から分かる筈はないが三十分の慣熟飛行は憧れが現実になってきた緊迫感でわくわくし通しであった。

大空に夢をかける者にとって最初の難関が離着陸である。空中操作といって水平飛行、旋回、上昇、降下が曲りなりに出来るようになると、いよいよ離着陸が始まる。

場周離着陸一回に要する時間は約七分である、その僅か七分のうちに次の課目を訓練する。
@離陸滑走 A上昇飛行 B上昇旋回 C水平旋回 D水平等速直線飛行 E降下飛行 F降下旋回 G着陸接地操作 H着陸滑走 そして諸操作に伴う諸元、速度計、回転計、ブースト計(吸入圧力計)、高度計、昇降計、旋回指示器、コンパス等を確実にセットしなければならない。この諸元については生徒隊卒業前から耳にタコができる程、反復して暗唱をしている、しかし実際に飛行機に乗ってみると爆音、風圧、速度感、いずれも始めて体験するものばかりで地上ではすらすら暗唱できても、いざ本番となればなかなか思うように必要事項が出てこない。自動車の運転、野球、ゴルフ等、いくら本を読んでも上手になれないのと同じで、知識として覚えたものと身体で覚えるのは全く別のものだと言いたいのである。

映画、テレビの画面で、又実際に飛行場で飛行機が滑走路の中心線にそってまっすぐに滑走し、フフリと空中に浮き上がる光景は見ていても非常に気持が良い。ところがプロペラ機の場合はエンジンのトルク(回転力)、プロベラの後流(プロペラの回転で風は後へ渦を巻いて流れる)の影響で絶対にまっすぐに走ってくれないから厄介である。自動車のようにハンドルからタイヤまで機械的に連結されていれば直進するのに問題はない。では何故直進してくれないかといえば先程のトルク、後流の影響と方向舵、昇降舵の利き具合が二十粁、五十粁、八十粁と速度に比例してどんどん変化する、だからその当て舵が早過ぎても遅過ぎても見事に蛇行することになる。その感じを身体が覚えるまでが一苦労である。もし飛行場の真ん中で手足を放してエンジンだけを全開にしたと仮定すると、おそらく飛行機はキリキリ舞をして転覆するだろうと思う、そのくらい尾輪式の飛行機は方向を維持するのが難かしかった。着陸滑走はその逆に速度が落ちるに従い舵が利かなくなり風上へ機首を向けようとする。風はいつも都合よく進行方向に対してまっすぐには吹いてくれず左右どちらか横風になるので、吹き流しを見て風向風速を判断して修正する。

今では自動車で百粁以上のスピード感を味わうことは簡単だが、当時は汽車より早い乗物に乗った者は居ないのだから、離着陸速度九十粁、百粁は物凄い早さと感じるのである、それに加えてむき出しの操縦席は風圧と爆音が激しい、いずれにしても改めて飛行機を操縦するということが如何に大変な事であるか実感としてわかってきた。

毎日「仙石上等兵、第十三号機同乗、課目離着陸」という日が続いた、助教の吉野軍曹は下士官学生出身の温厚な人であまり無茶な叱り方はしなかったので他の操縦班にくらべて随分助かっていた、但しこれは比較しての話で空中に居る間は十メートルの高度でも失速墜落は死に直結しているので
「コラーッ、こんな高い所から落して俺を殺す気かっ」とエンジン全開にして接地操作をやり直したり、接地速度の処理が悪くて大きなバウンドでもしようものならそのリカバリーは大変である。一度車輪が着いてから浮き上った機体は極端に速度も浮力も落ちるので、これをエンジンをふかしてだましだまし接地させるにはかなり高度な技術が必要である。教える助教も一日中何時如何なるときにどんな事がおきるか予測出来ないのでやはり緊張の連続である、怒鳴りたくもなろうというものである。ここで特筆したいのはこのように命がけのマンツーマン方式で教育を受ける場合嘘やごまかしは絶対にきかなかったということで、本人の性質、性格はそのものずばり操縦技術へ現われてくるからである。

この時期のしごきは個人的より斑単位もしくは区隊全員一度に「早駆けっ」とやられた。問題はその距離である、 一つの格納庫で二百メートル、格納庫全部なら四粁、飛行場1周は八粁である。勿論毎日早駆けをやらされていた訳ではないが、なにしろこれを命ずる助教達もみな同じ事をやらされてきた経験者ばかりなのでインチキはできない。それで早駆けを命ぜられるといっせいに我先にと走り出す、入校当時なら要領が悪いので足の早い者がほんとに早く走ってしまう、すると
「最後尾五名はもう一度走ってこい」とよく言われたものであるが、しばられる方も三年生ともなれば心得たもので、走り始め、途中、最後と遅い者のペースに合せて集団で走ったものである、助教達もそのくらいはお見通しであるが笑って見ていたと思う。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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