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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第二章 熊谷陸軍飛行学校
 三 稜威ケ原飛行場

ミイヅガハラ飛行場と称し、現在の地図にもこの地名は残っている。飛行場の面積だけでも東西南北それぞれ二千メートルだから約百二十万坪である、その中央を東西に道蕗が走り、南北を二分して一、二区隊が北側、三、四区体が南側と使用区分が定められていた。半分にしても幅千メートル、長さ二千メートルの広い草原でビスト(天幕を張った空中勤務者の控え所)は真ん中道路寄りに設けられていた。

練習機は九五式三型中間練習機で、この飛行機は戦争中に最も多く量産された練習機の傑作機であり、陸軍、海軍、航空機乗員養成所等、パイロットを表成する施設では殆ど使用され、戦争中のパイロットの大半は例外なくこの飛行機のお世話になって一人前になった。複葉、複座、羽布張り、三百五十馬力、巡航速度百五十粁のこの機体は非常に頑丈に出来ていて、落下着陸、大きなバウンド少々の事ではビクともせず、特殊飛行はなんでもOK、離着陸距離は四、五百メートルである。

現在はどんな飛行場でも滑走路が整備され、飛行場は長いという感じがするが、この一周八粁、真四角の飛行場はとにかく広い、そのど真ん中にピストがあり、そこに飛行機を並べて離陸するのであるから蛇行しようがヒッカケられようが心配はなかった。格納庫前で課業整列を終り列線の飛行機を始動車が次々とエンジンを始動して回る、試運転を終った機から南側を使用する我々三、四区隊は一斉に北から南へ地上滑走で移動する、その移動を待って北側一、二区隊が離着陸を開始する。この最初の地上滑走の光景は一度に両側の三十数機が動き出すので実に壮観である。しかし現在では滑走路を使用するので、もうあんな光景は二度と見ることができない。二番目以降に搭乗する者はトラックでピストヘ移動して待機する。

着陸は南端近くに定点着陸用の布板をニケ所に並べ、外側を奇数号機、内側を偶数号機が使用した。四月から五月と日ざしがだんだん強くなり、草原の真ん中から格納庫を見ると陽炎でゆれて見えるようになる、ピストから見る着陸地点は千数百メートル離れているので、そのゆらゆらしている所へ赤トンポと言われていた練習機がゆっくり着陸し、そのまま又離陸する光景は丁度ピントの合わない高速度撮影の映画を見るような感しである。

昭和十九年四月、生徒隊課程を無事終了し本校教育隊、第十九班に配属され二年間夢にまで見た待望の操縦教育が始まった。教育方法は次のようになる、教官、助教一名に対し四名一組の飛行兵が割当てられる、当然助教の数が足りないので三区隊の助教全員これに加わり、四区隊の助教は三区隊を応援する。私の助教は三区隊の吉野軍曹であったが助教は二組八名の飛行兵を受け持ち、 一日中飛行場で練習機を飛ばすことになる。

飛行兵は一、三区隊、二、四区隊が一週間交代で午前午後が変り、半日は学課で飛行機に関する理論、操縦の方法、計器の読み方等々、難問山積学枝生活最後の試練、熊校伝統の徹底的なしごきに全員が歯をくいしばって立ち向かった。
『飛行機を操縦したいという子供心の単純な発想もここまでくると、心身共に鍛えられ強固な決意になっていたのである。昭和十九年四月という時期を考えた場合、熊谷本校の教育に関する環境は当時としては最高であったと思う。私達四名が割り当てられた飛行機は第十三号機である、ところがこの十三号機という機番が三機あった、つまり教官、助数が二組八名の訓練をするのに飛行機が三機宛準備されていたのである。親方日の丸とはいえ実に豪勢なものである。分教場では設備は悪く予備機も少なく大変苦労したと聞いているのに、本校では三日に一日使用して二日は整備である、だから訓練日程は天候に左右されることはあっても飛行機の故障の心配は皆無であった。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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