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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第二章 熊谷陸軍飛行学校
 二 グライダー

昭和十八年十二月一日、陸軍生徒から現役に編入され上等兵になる、今迄着慣れた生徒の軍服を返納し一般の兵服を始めて着た、入校以来赤べタだけで淋しかった襟章が今度はいっべんに星三つになり、プロペラの襟章もそのまま、右胸にウイングマーク、儀式、外出時には金星三つの肩章まで付けるので兵服になっても生徒の服装よりかえって目立つようになった。これが他の学校の生徒から恐れられたいわゆる「ペラ上」プロぺラ上等兵の服装で、戦後いろいろな学校の写真を見てもこの服装が見当たらないようなので、あれは我々少午飛行兵だけの盛装だったようである。

生徒隊の課程も最後のグライダー、リンクトレーナーを残すだけになり、 一月下旬に近くの児玉分教場へ移動してそこでグライダー教育を受けることになった。しかし時期としては上州のからっ風が一番強い頃で、プライマリー(初級滑空機)の理想的な風速ほ秒速五メートル前後であるから条件は非常に悪い。だから飛行場の吹き流しを常時見ていて風が少しでも弱くなると「引け―っ]とゴム索を引っ張る。このプライマリーの訓練は実に重労働である、 一ケ班十八名に一機割り当てられているので一回乗るのに十七回ゴム索を引っ張り、機体をワッショイ、ワッショイと元の位置まで押したり引いたりして持って帰るのである。「仙石上等兵、第二号機搭乗、科目地上滑走」この搭乗申告だけ聞いていると威勢がよいが「放せ―っ」と号令一下、スルスルツと二、三秒、十メートルも行くと終りである。なにしろ気象条件が良くても悪くても訓練日程は変わらないので、どうしても科目の進み方は無理をしなければ間に合わない。地方の学校で練習する場合は地上滑走だけでも三十回、五十回と練習すると聞いていたが私が二十五メートル索で最大滑空を行なったのはなんと四十五回目である、そして五十回目は五十メートル索の最大滑空であった。

最大滑空というのはゴム索をもうこれ以上のびないというところまで引っ張り、 「はなせ―っ」の号令で機体を固定しているロープが放される瞬間から上げ舵をとる、急角度で上昇して一定の高度に達するとゴム索の連結が外れてチャリーンと音がする、 一番大切なのがこの瞬間でここで思いきり機首を押えないとまるで紙飛行機のようにフワーッと機首が上り失速墜落する。現実にこの事故が隣の班でおきて目前で見ることになったが、高速度撮影を見るように機首を上にしてグライダーが頂点で一瞬静止する、そして次に機首がガクンと下がり落ち始める、この時は幸運にも五十メートル索で引っ張っていて高度があったので地面すれすれで機体が水平にもどり、グライダー格納用の天幕に突っ込み機体は大破したが本人は無事であった。もし二十五メートル索の最大滑空であれば頂点の高度が低いので大惨事になるところであった。プライマリーというのは身体をベルトで固定しているだけで前には何もない、勿論速度計、高度計は付いていないので速度は風圧を肌で感じ高度は目測である。だから五十メートル索の最大滑空は実際の高度は二十五メートルから三十メートルでも五十メートル以上高く上っている感じで実に爽快なものである。しかしそれも束の間止まったが最後で飛んで行っただけ又十七回定位置迄機体を運ばなければならない、地上滑走の時と違って高度が上れば距離はどんどん伸びるので大変な作業であった。機体破損の事故は数件あったが人身事故はなしで一ケ月間のグライダー教育を終ることができたが、兵役にある期間を教育ばかり受けて過ごしたが、この時の教育ほど無茶な日程で課目が進められた事は他にはなかった。

本校へ帰ってくると次はリンクトレーナーである、これは現在のシュミレーターのオモチャ程度のものだが、勿論どこの分教場にもなく、本校で教育を受ける者だけが使用することが出来た。この他にも格納庫の近くに約十メートルの塔が建てられ、そこからゴンドラが空中ケープルで着陸接地時の状態のように降下して、大地の見え具合、高度の判定の訓練もした。生徒隊教育の大詰め離着陸の諸元の教育となれば、いよいよ飛行機に乗れる日が近ずいたという実感で夜の自習時間もなんとなくうきうきした気分の毎日であった。

 そんな或る日、風の強い日であったが飛行機の接触事故があり、四名殉職という事件がおきた。その時教育隊では特別操縦見習士官第一期生が卒業を目前にして猛訓練中であり、編隊飛行の訓練中 二機が空中接触して墜落、助教二名訓練生二名が即死であったが、その名前を聞いて驚いた。東航校へ入校した時の最初の班長大森軍曹がその助教の一人であった。各班から二名お通夜に交代で出るよう指示があったが、二年間同じ班で過ごしてきた林善兵衛(青梅市在住)と相談して二人で一晩中お通夜をした。班長の殉職を悲しんでいる暇もなく三月はまたたく間に過ぎ、学校生活最後待ちに待った教育隊の所属が発表になった。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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