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 「天空翔破に憧れて」
少飛第14期生 仙石敏夫


全文掲載

これは昭和62年、元陸軍少年飛行兵第14期生だった仙石敏夫さんが
還暦記念に1年がかりで御自身の戦争体験を
まとめ自費出版にて発行したものです。

仙石敏夫さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は仙石敏夫さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

第二章 熊谷陸軍飛行学校
 一 生徒隊

東航校の卒業休暇もアッという間に終り、指定された集合場所上野駅に到着、というところで大失敗、というのは上京する時地押不案内の知人を千駄ケ谷の駅まで送ったのがいけなかった、山手線外回りで新宿から上野までの所要時間を考えず新宿から乗換えて行くのはわかりにくいし、このまま乗っていれば上野へ行けると簡単に考えていた。池袋、田端を過ぎてやっとその失敗に気がつき時計を見て慌てても既に手遅れである、もう電車を乗換えて近道をする方法はない、結局集合時間に数分遅れで到着、「この田舎者、なにをぼやぼやしとるかっ」というお叱りだけですみ、まずやれやれと胸なでおろし熊谷へ向かう。

いよいよ憧れの飛行学校の建物が見えてくる、胸躍らせて衛門を入り早速所属別に分けられる。所属は第一中隊第一区隊第二班であった。四月ともなれば飛行場には陽炎がもえ、そこで練習機がオモチャを見るように離着陸を繰り返している、後、 一年の辛抱で自分達もあれに乗れるんだとお互いに喜び勇んだものである。それぞれの部屋へ案内され自己紹介も終り、飛行学校第一夜のことである。夜中に寝返りをうった瞬間ドスンと寝台から見事に落ちた、これは同じ藁布団と毛布でも東航校の七中隊の寝台は鉄製でスプリングがついていたが、此処のは木製の寝台なので慣れるまで非常に寝にくかった、翌朝食事を終って部屋へ帰ってきた時新しく寝台戦友になった小西が(現在川崎市在住) 「仙石、お前寝台から落ちても上るのが早いな」と言ったので、二班の者全貢がふき出した。なんだかこれでお互い初対面の固さがいっぺんにとれたような感じであった。

入校式が終れば早速訓練が始まるが、我々の予想とは反対に又しても小銃を、それも油紙に包装された新品の九九式短小銃を支給され一同がっかりした、特に東航校の一年を銃の手入れで楽な思いをしてきた私はそれからの一年をさんざん苦労をすることになった。

教練の科目は勿論あるが、この生徒隊では教える教官、班長どちらも整備が専門で銃の扱いはあまり得意ではないように見受けられた、それで軍装をさせ行軍、駆け足ばかりの教練が多かった。この駆け足は熊谷陸軍飛行学校の伝統で、しごきだけではなく高空飛行をするのに必要な肺活量を多くする目的があり、日常生活で歩くという状態はなく全部駆け足ばかりであった。 一日のうちわずか三回食事後食堂から中隊へ帰る時だけ歩くことが認められていたが、それ以外はどんな遠い格納庫(片道二粁)でも例外ではなかった。しかし訓練の効果は三、四ケ月であらわれ、生徒隊後半では十粁、二十粁の駆け足は日常茶飯事のようになり、忘れもしない昭和十九年二月八日大詔奉戴日 といってもわかる人が少なくなったが伊勢崎の近くの本庄市にある児玉飛行場でグライダー教育を受けている時だったが、約五十粁を上半身裸体で隊伍を組んで走らされたことがあるが落伍した者は皆無であった。やはり東航校で基礎体力が養成されているので上級校での仕上げが急ビッチになり、かなり過酷なしごきにあってもなんとか耐えられる身体に鍛えられていた。

しごきといえば学校では集団でしごかれる事が多かったが、例外に相撲、剣道の試合があった。一般的には勝ち残りが試合の形であるがここでは『負け残り』である。これは一回の勝負で勝てばよいが負けると大変である、自分でギブアップする事は許されないので最後ふらふらになってやっと退場する事が許される。何事によらず「人に負けるな」この一言である。しかしこれは前記の得手不得手があるので得意でない者にとっては恐怖の時間だっただろうと思う。

学課はここにきて始めて飛行機工学、エンジンエ学、そして流体力学と専門的になるのでますますむつかしくなる。東航校では物理、数学としてベルヌーイの定理だとか計算式等を無理につめこまれオーバーフローしたが、飛行機工学ではあの重い機体が何故浮き上がるのか、プロペラはどういう役目をするのか、エンジンエ学では四衝程サイクル、気化器、トルクとは、勿論むつかしいが物理として勉強するより飛行機という興味が加わるので案外早く理解出来るようになった。その学課に並行して実習は一ケ班にエンジン一台を割り当てられ、全部分解組立をして試運転まで実施することになっていた。さすが熊谷の本校だけあって資材は豊富である。

操縦教育の課程が長くなるのは、この基礎教育まで加わるためで、まだこの他に無線通信の送受信、無線電話の取り扱い、気象学と猛烈な勢いで詰め込み教育が実施される。しかし我々は
「俺達は操縦なのに、何故こんな事までやらせるんだ」とぶつぶつ不平を言いあっていた。星型九気筒エンジンの理論は非常に複雑で四衝程サイクルるまでは理解できてもそれから先のクランク角度、点火順序となると一回の講義、実習くらいではとても理解するのは無理な話であった。ところが戦後、昭和二十七年に自動車整備士制度が発足し、三十年から約十年間整備士養成の講師を勤めたが、この時の勉強が全部役にたち、星型エンジンの理論に較べれば自動車のエンジンの理論は簡単に理解することができた。又昭和四十年に飛行機採縦のライセンスを受験したとき、飛行機工学、エンジンエ学、流体力学、気象学、航法(ナピゲーション)等、全科目を案外簡単にパスすることができて自分で驚いたが、その当時目分で勉強したのではなくて、周囲の環境でさせられたんだという思いを新たにした。

その厳しかった生徒隊一年間のうち、ただ一つのんびりと楽しく過ごすことのできたのが遊泳演習である。前記の東航校は千葉の館山悔岸で赤帽組が受難の毎日を送ったものだが、二年目の夏ともなれば赤帽をかぶる者もなく、場所も館山の近くの富浦海岸で一週間泳ぐことができた。そののんびり楽しい理由が面白い、日頃朝から晩まで人より早く、人に負けるなと尻を叩かれているのにこの水泳だけは泳ぐ速度を全然要求されないことで、クロールの競泳はお呼びがなく反対に海上不時着等を想定して体力の消耗を少なくして海上に長時間浮いているのがこの演習の最大の目的なのである。それにもう一つ、班長が整備が本職で教練があまり得意ではないと書いたが、水泳も同じく遠泳のできる班長も居なかった。だから泳げる者にとってこんなに楽な演習は又とないチャンスとのびのび海水浴を楽しみ、海から上ると涼しい松林の中で課外訓練で通信の受信教育と多少教育らしいことはあっても、実に愉快な一週間であった。最後の仕上げが十粁の遠泳で全員に近い参加者であったが、昨年の夏、赤帽をかぶっていた者が合計僅か二週間の訓練で遠泳に参加するのである。これさえ成功すれば名実共に赤帽を返上できると張り切っていた戦友が忘れられない、しかし実際には十粁泳ぐということは山国育ちの者にとって大変なことで、正直なところ恐怖すら感じるのが本音である。私はなんとか隊列から離れることなく泳ぎきることができたが、順次途中から遅れる者には舟が全部つきそい遠泳を成功させた。時間は長くかかったが落伍者は一名もなしという好成績で、舟で付き添った班長達が驚いている様子であったが、これも理由は至って簡単、ただ人に負けたくないこの一念だけで一時間以上遅くなても目的地へ到着したのである。

    昭和62年発行 
    「天空翔破に憧れて」少飛第14期生 仙石敏夫著より転載


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