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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

被爆者の叫び

『悩み苦しみの半世紀』 殿原好枝さん

 昭和20年8月9日午前11時3分、世界で2番目の原子爆弾が長崎市浦上地方を中心に落下 しました。その時、私は中心地にある勝山国民学校(現在の小学校、当時児童・生徒数二千人余、 先生六十人余)の女教師でした。

 11時近く男の先生が弁当を食べにかかられたので、お茶の用意をと立ちかけた時、ピカッと 目がつぶれるくらいの強い光と色(赤黄青その他の色をミックスしたような)が目に映ったかと 思うと同時に、ドカーンと耳をつんざく大音響に机の下に潜りました。

 ほどなくしてどこからともなく、スーッといやな臭いが鼻をつきました。男の先生が「毒ガス だ。口を開けるな!」の声に両手で目と鼻を押さえていました。と。校長室から「防空壕へ逃げ よ」という校長の声でハッと我に返り、机の下から顔を出してあたりを見てびっくり仰天。

 職員室の窓ガラスは全部割れて散乱、戸棚も倒れ中の書類はメチャメチャの状態。机上の通知 表も書類、お弁当も日用品、財布、その他の大切なものを入れていた袋物(ハンドバック)等そ こらになし。おそらく風圧で遠くへ飛ばされたのでしょう。ほどなくして講堂の入日に第一救護 所の看板が立てかけられ、講堂内の後片づけも終わらぬうちに傷ついた人々が続々運ばれてきま した。上着、ズボンともズタズタに引き裂かれ、頭から胸から背中から血が流れベットリとこび りつき、それでも必死に足を引きずりながら歩き、講堂の床に横になるなり息を引き取った人、 皮膚がぶら下がり肉がザクロのようになり、あちこち焼けただれ目をそむけたい哀れさ。

 私達はにわか看護婦に早変わり、医務室へ走り脱脂綿、包帯、赤チン等持ち帰リオキシフルで 拭いて赤チンを塗るだけの応急手当てしか知らず、それらの作業中、私は貧血を起こし気がつい た時は夕暮れでした。

 私は学校の近くに教え子の離れを借り、友人と二人で自炊をしておりました。しかし幸いにも その家族は全員無事で、けが人もなかったので安心しましたが、ほとんどの人家がつぶれている とは夢にも思っていませんでした。

 着のみ着のまま教え子の兄妹を連れて私は自分の家へ帰ることにしました。市中から三里離れ た郊外の実家へ、県道は危険と思い山を越えて帰り着きました。夜なのに明かりもつけず山道の 峠を越せたことは月が出ていたのでしょうか、教え子の手を取り元気づけ12、3キロの道を迷 うことなくたどり着き「ただいま」を言うことができました。

 父は私の顔を見るなり「亡霊ではないのか?本当に好枝か?助かったのか?」と腕をつねられ ました。 一カ月ぶりに会った父にいきなり腕をつねられ、 「痛いー」と大声を出したら、 「生き てる、生きてる」とそれでも半信半疑の様子でした。

 長崎市内は全滅と聞いた兄は「私の遺体を探しに行く」と先ほど出掛けた、と小声で話しなが ら、私の無事な姿を涙で喜んでくれた兄嫁。有り合わせの食事と風呂でやっと生きている実感を 味わいながらも、朝から恐ろしい出来事になかなか眠れなかった深夜でした。

 あれから50年の歳月が経ちました。敗戦と引き換えに民主主義の国となり、個人の権利が大 事にされるようになりました。しがし、被爆者はなぜか異端視され、結婚、就職にも、冷たく扱 われました。戦後の混乱時代でもあれば致し方ないとあきらめ、被爆者であることを隠した時期 もありました。

 結婚し子供が出来ても、放射能を受けたその何かが遺伝するのではなかろうかと、命の縮む思 いで苦しんだ人も多かったと聞きました。私とてその一人!子供の顔を見るまでの苦悩は考えて は泣き、開き直ってはみるものの、またすぐ悪い方へ考えが移行し苦しみました。

 「どんな子が生まれても、二人で育てよう」と言ってくれた夫を信し、勇気を出して産みまし た。変わったところもなく、安心して三人の子の母となり、人並みに母の役目を果たし、子達も それぞれに社会人となり結婚しました。そして孫の出生が始まりました。 「隔世遺伝」を聞く度 にまたしても、苦しみ祈りました。

 戦後50年は核の時代だ、と言われた人がいました。全くその通り、核保有国になるための製 造、それの実験と各国共に血眼になって核兵器の開発は異常なものでした。数の力で、実験で、 自国の強さを強調し、大国意識はますますエスカレートし、放射能の恐ろしさを叫んでも、いっ こうに開き入れず、人体実験は平気でやってくれました。

 このような状態では人類が、生物が、地球が、滅亡すると科学者、学者等が立ち上がり世論の 声となったのも近年になってのこと、政治家もやっと重い腰を上げかかったようですが、全世界 の足並みは急速には揃いそうにもありません。

 泣き寝入りを強いられた日本の被爆者が自分たちが受けた放射能の恐ろしさに気付き、それを 一つの運動として仲間入りを呼びかけたのはビキニの沖で被爆死された久保山愛吉氏がきっかけ でした。こうした苦難の道を乗り越え冷たい壁を一つまた一つ破りながら、運動を推進された先 駆者の後に続く私たちも高齢化で体力、気力共に衰えてまいりました。

 しかし核による人体の生命すら危ぶまれる今、被爆者である私たちがその阻止の先頭に立ち訴 え続けることが使命だと、杖にすがりながらも運動に参加する同志の姿に、私も、子や孫の出生 にまで心痛め、悩み、苦しみ、泣いたあのつらさを世界中の女性に体験させないためにも、被爆 者の一人として戦争を憎み、平和な暮らしの営める世の中にしてほしい願望を訴え続けて参りた いと念じております。   (了)



     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載


     ※「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて
       (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)の
       ”目そむけたい死傷者のうめき”と同じ内容です。


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