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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

被爆者の叫び

『原爆さえなかったら』 鈴木絹枝さん

 当時私は3才であったため、全然記憶はありません。しかし両親達が口々に耳にタコができる くらい、私に言い聞かせたことを話します。

 私達は長崎市竹ノ久保町で被爆しました。父母、姉三人、私と弟七人家族、次女はピ力が落ち たとき、防空壕の近くにフトンを干してあったのを入れに行ったときに被爆し、父母、私、弟と 防空壕の下の谷底に落ちて、父母達が気づいたときは私と弟はギャーギャーと泣いて、次女は当 時7才、フトンが体に巻き付いて「お母ちゃん、助けて。お父ちゃん助けて」と泣きわめいてい たそうです。母も腕に火傷を負い、姉は全身火傷で、8月27日にこの世を去りました。

 父は姉と母を長崎大学病院まで連れていく時、家はみな焼けて、まわりは火の海と、焼けて死 んだ人、水々と叫ぶ人、本当に地獄だったと口々に話してました。

 私も小学生の時「原爆の子」という題の映画を学校から見に行ったとき、初めて原爆の恐ろし さを知り、父母達が話していたのと同じだと幼心に思い泣きました。

 それでも私達子供のため、苦労して苦労して母 が昭和36年、父が昭和38年、三女と弟が 昭和43年に死去、やはり原爆のせいで若死だ と思います。

 私も小さいときから今日まで、原爆さえなかっ たら、どんなに幸せだったろうと思います。本当 に戦争だけは地球を滅ぼすことだと思います。

 今でもフランス、中国の核実験に断固反対いた します。また日本政府は被爆や空襲にあった方々 に国家補償をするべきだと思います。二度と戦争 を繰り返さないためにも…。 (了)

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載


悩み苦しみの半世紀
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