「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
被爆者の叫び
『長崎市街は火の海』 小林 茂さん
私は海軍船舶警戒兵として、勤務中に長崎港で被爆しました。B29から原爆投下でピカッドー
ン、と同時に爆風で一万トン級の船が大きく揺れて、立っていられないほどでした。ふと気がつ
くと左上半身が熱傷を受けていました。私の勤務していた砲塔の戦友七名全員が熱傷を受け、中
の一人は全身負傷していました。港から長崎の市街を見ますと、火災が一斉に起きて、盛んに燃
え上がっていました。
傷の手当もできない状態でした。誰が言うともなく油を塗ると良いと言って、油を傷に付け、
その日は十七時頃まで警戒体制で勤務についていましたが、傷を受けた箇所に太陽が照りつけ痛
み、大変苦しみました。
「負傷者全員上陸せよ」との命令で上陸はしましたが、市街は火の海で居る場所がなく海岸に
出て一夜を明かしました。
翌日、大村海軍病院へ入院のため、長崎から諌早まで15キロの道は負傷者でいっぱいでした。
道路に倒れ肉親と思われる人、泣 き叫んでいる人、背に負われ肩にか
けられていく人、手を引かれ助けら れて、着ている服はぼろぼろで、男
女の区別も付かないような姿は、地 獄絵そのものでした。
駅では広場や道路一面に負傷者が 倒れて唸り声を上げ、水を求めて泣
き叫んでいる人、ここまで辿り着い て命絶えた人、肉親、知人を求め泣
き叫んでいる人で溢れていました。
病院では市民も混じって広い病棟はいっぱいでした。庭には呻く人、声を殺して泣いている人
が大勢いました。朝になって私の入院していた病棟だけでも、
一晩に6人もの人が死んでいきま した。
終戦になり本隊へ復帰せよ、との命令で退院しました。わずか6日間の入院でしたが、私の入
院していた病棟では、子供をまじえて12、3名の人が亡くなっていきました。
このような恐ろしい無差別爆撃の兵器を五大国を始め、各国が保有し実験が行なわれているこ
とは、誠に悲しいことです。 一日も早く全世界よりなくなることを願います。
(了)
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)
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