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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

被爆者の叫び

『続けよう核廃絶の運動』 水野豊美さん

 8月6日、空はどんよりなんだか暑かった。突然警報がなった。B29がゆうゆうと上空に姿を 現わしたが、すぐ姿を消した。空襲解除の警報でホッとして防空壕から家に戻った。ほどなくし て、轟音ともなんともつかない音がした後、パッと光が走った。

 二階にいた私の体は押入の中にあった。何でこんなところに入っているのか、頭の中を走った 感覚では、爆撃ではなくなんだろう。

 二階の南側の戸は全部ガラス戸である。腰をしたたか打った私は、やっと痛い腰を支えながら 押入から出た。窓ガラスは全部破損、私の腕からガラスの破片が突き刺さったのか血が流れ、服 も血で染まっていた。

 痛みなど感じなく、夢中で子供を探した。長男四歳をやっと見つけた。 「お母さん、アメリカ が僕に爆弾をぶつけた」と言って走り寄ってきた。長女二歳も見つけた。何だか恐ろしい気配を 感じ、ここにいては危険と直感し外に長女を抱きかかえて出ようとした時、階段の所から火が出 た。あわてて水をかけ、消してから外に出た。

 私の住んでいたところの前は二重土手といって、桜並木があり、桜の開花時はとても賑わうと ころで、川幅は大したことはなかった。太田川に注ぐきれいな水が流れていた。

 外に出た途端、唖然としました。どこから来た人なのか顔の皮膚がむけ、衣服は破れ、それは 想像もつかない人達が水を飲もうとして川に入っている。その横に血だらけの人が倒れていた。 振り向いてみると、近所の民家から火が出ている。私の家も煙が出て燃えているではありません か。どこからともなく人の声がして、危険だから山へ逃げようと叫んでいる。

 どうしたらよいか。私はニキロほど離れたところに知人がいる。そこへ行ってみようと思い、 二重土手を必死に歩いた。途中川の中に、衣服は破れ、焼けただれた体で倒れている人が幾人も いた。思い出せば身の毛もよだつ、まったく悲惨なものだった。

 私の家は爆心地から二、三キロ離れたところにあった。知人のところにたどり着き、数日間負 傷者の看護や死人の整理に携わった。

 皆さんも広島の原爆資料館を見られたことがあると思いますが、あれは写真、生きている生の 人の姿は悲惨そのものです。52年を過ぎて被爆者の多くの方々は家を焼かれ、被爆のために いろいろな病苦に耐え生きているのです。52年前と違って現在の原爆の破懐力の凄さは数倍 です。被爆すれば人類の生存はまず、むつかしいことだと思います。

 核使用は絶対に許せないし、地球の平和を守るために私達被爆者は核をなくすため、運動を続 けていかなければならないと思います。 (了)



     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)

     ※「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて
       (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)の
       ”写真でも表せぬ悲惨な光景”と同じ内容です。


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