「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
被爆者の叫び
『ヒロシマは死んだ』 松本清香さん
8月6日、その日も日中の炎熱を思わせる雲一つない無風の朝であった。
6時半過ぎ警戒警報が発令されたが、間もなく解除された。かかることは連日のことにて別に
気にも止めなかった。
8時10分、いつもの朝礼を終え、いよいよ仕事にかかろうとした。その時である。突如、
一大 閃光がひらめいた。それはかつて私が経験した如何なるものの幾百倍、否、幾千倍もの強烈なも
のであった。私達は思わず顔を見合わせた。と俄然、百雷落下の大音響と同時に大爆風が、私達
はどう走ったのか分からない。とにかく防空壕に駆け込んでいた。
それは正しく一瞬の出来事であった。
「一体、何だろう?」誰かが咳いたが、応ずる者もない。私達はただ次に来るべき大惨事を想
像し、危惧するばかりであった。不安と恐怖が体内を駆け巡った。しかし何も続かない。私達は
外に出てみた。何も異変はないかに見えた。だが、驚くべし。
一大煙塊が天に冲するを。私達はその時、あの黄褐色の大煙塊・原子雲がヒロシマ上空高く、
刻々と膨大しつつあるのを見たのである。
10時、情報収集のため伝令が出発した。私達は裏山に上り、広島方面を望見した。二、三カ所
火災が上るほか何も異変はないかに見えた。
夕方伝令が帰隊した。
「広島は全滅です。すべての建物は壊れ目下類焼中です。街は死体で埋まっています」
伝令は何者かに憑かれているようだった。
私達はさっぱり分からない。 「一体広島はどうなったって?」私は咳き込んで伝令の一人に尋ねた。
「とにかく、想像もつかないことが起きています。‥‥広島は死んでいます」。伝令の顔には
苦悶の色さえ伺われるのであった。
8日朝、私は状況視察の西原少尉に従って街に出た。字品に着いた時は、すでに火傷の重患者
が続々と搬入されていた。彼らの衣服は焼け、肉はただれ、髪は焼けちぢれ、その惨事に慄然と
した。
幸いトラックに便乗でき、市内に向かった。その頃、専売局前には厳重な臨時検問所が設けら
れ、軍公用以外の一切の通行が禁止されていた。やがて御幸橋にかかった。ところがあの頑丈な
石の欄干が吹き飛んでいるではないか。と見れば一並びは橋上に、もう一並びは川中に整然と並
んでいるのだ。
私は今更ながら爆風の威力に驚嘆するのだった。橋の袂から被害は本格化し、目を覆うばかり
の凄惨さである。両軒並みとも、全壊またはそれに近いものばかりである。しかも火勢は間近に
迫っている
。 路上には馬の屍さえ横たわっていて凄かった。赤十字病院を過ぎる頃、炎は路の両側を舐めて
いた。電柱が火柱となって、ドドッ、ドドッ、と唸りを立てて崩れていった。私達はその下をく
ぐって行った。
私達は鷹野橋で行き止まった。炎と熱気が行く手を阻んでいるのだ。周囲は一面の火の海であ
る。泣き叫ぶ嬰児を背負った素足の女がよろめいて行った。修羅場とはこれを言うのだろうか。
翌夕刻、私はかねてお世話になっていた吉川旅館に辿り着くことができた。私はそこに無惨に
も焼き尽くされた吉川旅館を発見した。私は涙もでなかった。ただ唖然である。意識された悲し
みは、まだ真の悲しみとは言えないのではあるまいか。
私は通りに出た。正しく死の街である。私は伝令の言葉を思い出した。足の踏み場もないほど
に重なり合って、倒れている所もあった。 一間に二、三人は決まって見られた。中には脳さえ露
出し、それが火勢に黒く焦げているのもあって、痛々しかった。
私はもう一度吉川旅館に行ってみたくなった。もう黄昏が降りていた。私は焼け崩れた廃虚に
佇んで暮れゆく厚子野、ヒロシマをあかず見つめていた。目前には門柱がポツンと立っていた。
(了)
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)
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