「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
被爆者の叫び
『「ピカドン」が憎い』 小谷静登さん
当時、私は陸軍の小銃を造る工場に勤務していました。その日は「夜勤明け」で、外はジリジ
リするような真夏の太陽が照りつける暑い日、私は寮に帰ってきて浴場で汗を流している時でし
た。
”ピカッ“と一瞬強い稲妻が、いや”閃光“が走った。,”アッ“東の方に太陽が輝いているの
に、見ると西の空が真赤で、夕焼けの太陽のようだ。
「なぜ」だ?と思った瞬間、轟音と同時に 物凄い爆風が窓ガラスの破片と共に私の身体を襲い、私は浴場のタイルの上に飛ばされた。
何がどうなったのか瞬間分からなかった。起き上がり衣類を抱えて、無我夢中で自室に走って
帰ったようだが、どこをどう来たか覚えていない。ガラス破片の散乱している長い廊下……。今
にして思えば「ゾッ」とします。自室に来たものの、すぐには入れなかった。ガラスが全部鋭角
となって襖に、畳に、壁に矢を射込んだように突き刺さって、天井板も三分の一程度も下がって
いた。
その時、全身の切り傷の痛みが襲ってきて、出血に気がつきました。幸運にも無傷の同僚に助けられ、社内の病院で手当を受けられたのは幸いで
した。病院への行き帰りに空を見上げると、巨大
な黒い雲が中空に突き抜け、大きな黒い傘となっ
て時折、雨を降らせています。
朝8時15分までは、雲一つなかった青空は真っ暗になり、異様な風景です。今思うに映画「十
戒」の場面で神の怒りで、天空が真っ黒になる場面と同じでした。それから暫くして、広島市街へ家の破壊作業に行っていた寮生が走って帰寮し
てきました。みんな衣服は焼け、顔も手も足も皮膚は赤味が出て垂れ下がり、
「ワカメ」を張り 付けたようです。 「ヤラレタ」
「痛いよ―」と、うめき声が寮舎内に満ちてきます。医師も足り
ず、薬も十分になく看護婦も足りず、若い生命が次々と失われていきました。広島では、原子爆
弾のことを「ピカ」、または「ピカドン」と言っていました。あの一発の「ピカドン」は多くの
生命と幸せを一瞬のうちに奪ったのです。
「ピカドン」が憎い。世界中が一致協力して原子爆弾を封じ込めなければ、地球の真の平和は
来ないと思います。核兵器廃絶あるのみです。(了)
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)
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