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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

被爆者の叫び

『末期の水に「ありがとう』  小嶋定男さん

 長い間、戦争のない平和な日本に毎年、暑い夏がやってくると、その昔、今や語る人も知って いる人もだんだんと少なくなって、風化されようとしている広島被爆直後の惨状が忘れることな く頭に浮かんできます。

 昭和20年8月6日朝8時15分、広島上空に原子爆弾が炸裂……。そしてその時、私は応召 の海軍兵の一員として8月5日まで、現在残されている原爆ドームの付近にあった銀行建物内に ある軍需監督部に勤務。午後になって広島上空より西方の海辺にある軍需工場に派遣され、運良 く直爆の難を免れ命拾いをしました。人生の運命は生きるも死ぬも、全く紙一重だと思っていま す。半日の違いで…。

 8月6日、海辺の砂浜で朝礼の点呼を終えて室内に入った瞬間に、目もくらむような物凄い雷 の稲妻のような閃光が走り、我を忘れて愕然としている間に次はドカン…。大音響と共に熱い爆 風の来襲。窓ガラスは全部破れて机上の書類が全部吹き飛んで、思わず机の下に潜り込みました。 広島方面の上空には白と黒のキノコ雲がム クムクと横に大きく拡がってゆく様子がよ く見えました。

 停電のため音信は全部不通となり、本隊 との連絡も取れずどうなったのか?不安の 中、やっと午後になって広島方面より大勢 の被爆者達がゾロゾロと素足で夢遊病者の ような姿で避難してき、初めて爆弾の投下 と知りました。

 これは大変と、十数名で本隊の救援に徒 歩で出発し、広島に近づくにしたがい家屋 の倒壊も甚だしく、崩れ落ちた橋を渡って 一面焼け野原の煙のくすぶる中を通って、 夕刻目的の本隊に到着しました。四、五階 建ての銀行の中にあった本隊の建物ビルは 外壁を残して屋上から一階まで厚い床が全 部落下して、空天井となって下敷きになった犠牲者の惨めさに思わず合掌し、付近に生存者は一 人も見当たらず、日赤病院に被爆者が集結していると聞いて、無灯の街を月明りを頼りに路上に 倒れて焼けただれて半狂乱になって、助けを求める悲鳴の声を耳にしても、どうすることもでき ず、介議することが出来なかったことを思うと、今でも介護の念で胸が痛みます。自分が死ぬま で忘れられません。

 夜中にやっと日赤につきましたが、ここも男女の見分けが付かないような被害者の集合で、阿 鼻叫喚!地獄絵そのもので、冷たい水が飲みたいとわめいています。どうせ助からない命と思っ て、末期の水と大勢に飲ませてやると、かすかに兵隊さんありがとうの一声を最後に息途絶えて いきました。

 夜が明けて周囲を見渡すと、遠くの山々は全部赤茶色に変色し、緑の植物は草一本も見当たら ず、こんな焦土の砂漠のような土地に人間は生存不能とさえ思いました。 一日も早く死臭漂う死 の街より脱出したい気持ちでいたが、軍服を着ている限り自由行動は詐されず8月15日の終戦 の報も知らず野宿して死体の焼却作業に従事して、8月いっぱい焼け跡でその間何を食べていた かは、全く分かりません。9月初めに栄養失調で全身ボロポロになって足を引き摺りながら、貨 物列車に乗って復員しました。

 あれから50年、あの時広島で死んでいたら今日の自分はない。豊かな心で喜寿を迎えた幸せ を感謝し、限りある余生を被爆者の愛友会や犬山市老連のリーダーシップをとって、社会奉仕に 身を捧げて満足の日を送っています。二度と再び戦争をやってはいけません。平和都市宣言をす る犬山市より核兵器廃絶を訴えて、人類の平和を願い被爆犠牲者の冥福を祈って被爆体験談を記 す。 (了)



     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載

     (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)

     ※「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて
       (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)の
       ”死ぬまで忘れぬ地獄絵”と同じ内容です。


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