「平和を願って」
戦後50年 犬山市民の記録
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。 著作
権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
犬山市民と戦争の関わり
−名古屋から学童疎開‐
都市にアメリカ軍の空襲が激しくなると予想されるため、都会にいる子供たちに空襲の少ない
地方へ避難させることになりました。これを学童疎開といい、昭和19年8月から実施され名古
屋からも当時の犬山町や城東村、羽黒村、楽田村などへ子供たちがやってきました。
犬山町へは小針国民学校704人、吹上国民学校195人、師範学校付属小149人、城東村へ門前国民学校214人、大口村と羽黒村へ那古野国民学校390人という具合に学校単位で集団疎開がありました。楽田国民学校でも昭和19年4月の児童数が641人だった
のが、20年7月には1105人と2倍近くまで増えました。
児童達はお寺などに宿泊、吹上国民学校の児童のうち165人が徳授寺(外町)や正久寺(橋
爪)、天理教岩橋分教会(橋爪)などに割り当てられています。また門前国民学校の児童は福昌
寺(前原)、清水寺(善師野)、宗栄寺(塔野地)などに宿泊しました。
授業はその学校に定められた日課表にしたがって行なわれました。時には映画会を開いたり、
地元と都会の児童とが一緒に勉強や勤労奉仕をして、触れ合いを図っています。
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載
|