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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。


犬山市民と戦争の関わり

−工場へ学徒動員‐

 農家から一家の大黒柱である青年男子が出征したり軍需工場へ多くの若者が徴用されたため、 農村の労働力や食糧の不足が全国的に深刻な問題となってきました。そこで文部省は昭和13年 6月、中等学校以上の生徒や学生に夏期休暇中の30日以内は授業をせず集団で勤労作業をする ことを指示しました。目的は食料増産でしたが、戦争が激しくなってくると夏期休暇以外にも広 く行なわれるようになりました 。

 犬山南尋常高等小学校(今の南小)でも昭和13年度から勤労奉仕が始められ、同小の「80 年の歩み」の年度別勤労日数によると13年度10日、14年度11日、15年度14日、16年度20日、17年度10日、18年度43日、19年度198日、20年度工場へ86日、工場以外へ20日と いう具合に、年とともに勤労日数も増えていることがわかります。

 昭和16年の国民学校の発足にともない各学校に「〇〇国民学校報国隊」が結成され、児童や 生徒を勤労奉仕に従事させることになりました。勤労奉仕の内容は出征兵士や戦死者の家庭など の農作業の手伝いや山村荒れ地の開墾作業でした。運動場はもちろん校舎と校舎の間の狭い敷地 や空き地などを耕し、さつまいも、麦、大豆などを栽培し、給食の材料などに当てていました。

 栗栖国民学校では軍馬の餌の草刈り、どんぐり拾い、炭焼きの木などを切り出し、 ほかの学校でも草刈など同じような奉仕作業が行なわれました。

日中戦争当時は比較的軽い勤労奉仕でしたが、戦局が激しくなってきた昭和19年 8月「学徒勤労令」が出され、高等科以上(今の中学校以上)の全員を工場で生産に従事させる ことになりました。犬山では犬山高等女学校(今の犬山高校の前身)の生徒たちが江南市にある 三鷹航空工業古知野製作所や五郎丸の陸軍被服廠大山作業所などへ、北国民学校高等科二年女子 が日本紡績犬山毛糸工場へ、同高等科2年男子が東洋紡績犬山化学工場へ、南国民学校高等科2年女子も日本紡績犬山毛糸工場へと動員されたり、道路や河川の土木工事にも従事しました。

 敗色が濃厚となった昭和20年3月、文部省は「決戦教育措置要綱」を出しました。これは日 本が滅亡か存続かの瀬戸際に立たされてきたため、国民学校初等科(今の小学校)の児童を除き 学校の授業は4月1日から1年間停止、高等科以上の生徒は工場で生産活動に従事すると同時に 学校ごとに学徒隊を作り、アメリカ軍の本土上陸に備えるというものでした。

 犬山市でも5月22日に南国民学校学徒隊、6月22日に北国民学校に国民義勇学徒隊、 他の学校でも同じような学徒隊が結成されましたが、終戦で大半の学徒隊が解散されました。し かし戦後の食料事情の悪化などで、その後2、3年継続し食料増産のために勤労作業を続けた学 校もありました。終戦直後の日本紡績犬山毛糸工場の労働力の構成人員をみると、社員は男がわ ずか50人に対し、女が326人、また勤労挺身隊員6人、学徒動員189人で、大半が若い女 性たちでした。

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載


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