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「平和を願って」  戦後50年 犬山市民の記録

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。


犬山市民と戦争の関わり

‐怖かった機銃掃射‐

 日本本土への最初の空襲があっだのは、昭和17年4月18日白昼、アメリカ海軍の航空母艦 「ホーネット」から発進したBl7爆撃機16機によるものでした。この時は、空襲警報も出され ず、日本国民は不意を突かれた形となりました。東京など六都市が爆撃を受けましたが、名古屋 へは2機が飛来し、陸軍病院などを爆撃、うち1機が尾張地方を北へ向かい本土を横断、中国大 陸へ逃げたといわれています。この時、たまたま行軍演習と必勝祈願を兼ねて大懸神社に参拝し た犬山の旧制中学生達は、爆撃のため名古屋上空に黒煙が立ち上っているのを目撃しています。

 この時の被害は少なかったのですが、これを機会に国内では空襲に対する警戒が厳しくなりま した。楽田村史の空襲状況によると、最初の警戒警報が出されたのはそれから3カ月後の7月4 日午後で、 「初めてのことで世間騒がし」と書かれています。以後、18年には6回、警報が出 されていますが、日本本土への被害はありませんでした。

 昭和19年に入り、11月13日、名古屋上空に初めてアメリカ軍機が現れました。偵察飛 行であったため、被害はありませんでした。それから1カ月もたたないうちの12月13日午後 2時ごろ、67機の大編隊が矢田町の三菱重工業大幸工場を爆撃、名古屋上空に巨大な黒煙が立 ち上ったのが大出方面からもよく見え、戦争が身近に感じられるようになりました。

 空襲が本格化してから犬山に最初の米軍機が来たのは、昭和20年2月25日夕方のことで した。名古屋を爆撃した三編隊のうちの1機がなぜか犬山上空を旋回し、多治見方面から高山を 通り日本海へ抜けていきました。さらには3月11日、285機のB29が名古屋を空襲、 1793トンの焼夷弾を投下し、住宅を焼きつくしましたが、その時の1機が犬山上空を通過、4月6 日には深夜に1機、同28日にも偵察機1機が大山上空に飛来しています。5月24日には 岐阜方面から犬山上空を東へ抜けていきました。

 これまでは犬山市は空襲の被害はありませんでしたが、直接攻撃されたのは6月9日のことで した。午前11時半、警戒警報が出されて1時間後の12時半、30機の編隊が名古屋へ進人、 熱田の工場地帯を爆撃、さらに2時ごろには艦載機(小型機)50機が各務原の飛行場を銃撃し た後、犬山方面へ来襲、五郎丸、羽黒、楽田などで機銃掃射をしていきました。

 犬山では五郎丸にあった陸軍被服廠軍靴製造工場が、各務原方面から来た艦載機の機銃掃射を 受けました。学徒動員のためここで働いていた犬山高等女学校の生徒たち78人もパニッタに襲 われました。突然パリパリという機関銃の音に悲鳴をあげながら、ある者はとっさに頭に革の鞄 をかぶって地面に伏せたり、またある者は自分たちの作った簡易の防空壕に飛び込みました。動 員学徒達は無事でしたが、工場の主任が軽いけがをしました。空襲が去って周りをみて驚きまし た。工場のトタン屋根や壁は穴ばこだらけになり、地面には銃弾がゴロゴロ落ちていました。

 楽田では民家の屋根すれすれに艦載機が飛び、爆弾により2戸4棟が焼け負傷者も出ました。 この時は昼食をすませた後だったため、外で遊んでいた子供たちもおり、急いで田の畦道へ倒れ 込んだり家の中へ隠れたりしました。余りにも低空飛行のため、風防ガラスの中のパイロットの顔がはっきり見えたほどだったといいます。各務腹やや小牧の飛行場への襲撃はこのほか7月15 日、同19日、8月2日にもありました。また7月28日の夜、富岡北の裏山と楽田山に焼夷 弾が落とされ、 一面が焼け野原やはげ山のようになりました。ちょうど金魚花火のように落ちて きたといいますが、戦後になって米軍機が誤って落としたものとわかりました。

 そして8月15日の終戦。毎日のように出された空襲警報もこれでなくなり、これまでの繋張 感が一気に抜けた反面、ほっとした人たちも大勢いました。幸い犬山市への空襲被害は少なかっ たのですが、全国では98都市が被害を受け、死者・行方不明者合わせて30万人以上、被災者 は一千万人を超えるといわれています。県下へは100回を超える空襲があり、来襲機数は約2500機、死者7858人、負傷者10578人、被害戸数は135416戸にも達しています。 また近隣の一宮、春日井市へは5トンの模擬爆弾の投下実験がされたこともありました。 

     愛知県犬山市 平成9年8月15日発行 
    「平和を願って 戦後50年 犬山市民の記録」より転載


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