「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。 著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
犬山市民と戦争の関わり
ところが長期戦になってきたため、国民を戦争に耐えられる体制に持っていく必要に迫られ、
国民精神総動員運動を開始し、 「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」を三大スローガンに精神運動
が展開されました。そして神社、皇室陵への参拝、勅語奉読式、戦没者慰霊祭、軍人遺家族への
励ましと慰問、出征兵士の歓送、戦死者及び傷病兵の出迎え、紀元(皇紀)2600年の建国祭
への協力、出征兵士の留守農家の援農作業、銃剣道など伝統スポーツの奨励、ラジオ体操、清掃
などの勤労奉仕が全国一斉に行なわれ、大山市でも盛んに行なわれました。
さらに昭和13年、政府は「国家総動員法」を制定しました。これは議会の議決を必要としな
くて戦時には物資を徴発したり、兵士を召集でき、これによって国民生活も配給制になり統制が
暮らしの隅々まで行き渡るようになりました。政府はこれまであった町内会、、隣組制度を整備
し、国民精神総動員運動の末端組織として利用することを決め、国―県―市町村―町内会―隣組
という組織体制が確立しました。同時に隣組は上意下達の末端組織としてだけでなく、国を挙げ
ての戦いに全国民が協力しながら、お互いの個人生活の統制、つまり食糧や日常生活必需品の配
給割り当ても行なったり、お互いの思想監視をする役目も果たすことになりました。
戦争が激しくなるとほとんどの若い男子は戦場へ駆り出され、銃後、つまり留守を守る女性の
役割が大変重要となってきました。昭和13年、これまであった愛国婦人会のほかに大日本国防
婦人会が設立され、軍隊の縁の下の力持ち的な存在となりました。戦時食の料理講習会や廃品の
再利用の議習会、空襲の消火訓練なども行なわれたりしました。
昭和15年1月15日の犬山町国防婦人会の記録には、日中戦争で戦死した出征兵士の遺骨を
会員総出で犬山口駅まで出迎え、南小学校で慰霊祭が行なわれたことが書かれています。また2
月15日には「針綱神社で出征兵士の武運長久析願の祈祷をあげ、会員多数参加せり」とありま
す。昭和16年、太平洋戦争が始まるとこれまでの愛国婦人会と大日本国防婦人会は統合され、
大日本婦人会となりました。
昭和15年10月、政府は国民精神総動員運動が形だけで実が伴っていないと、新しい体制によ
り4年目に入った日中戦争の遂行を強力に推し進めようと、大政翼賛会を結成しました。やがて
議会は名前だけのものとなり、労働組合も解散させられ、 一億総国民が一丸となって戦争完遂に
突き進みました。戦争が長期化してくると、生活物資も不足するため、生活必需品の配給制度が
行なわれるようになりました。愛知県下では昭和14年末から始まったとみられ、翌年6月には
人口の多い名古屋など六大都市で砂糖とマッチが配給となり、各地に広まりました。
さらに16年4月には、米穀、小麦粉、豆類、乾麺、菓子、食料油、酒類、家庭用衛生綿、タ
パコなど日常の生活必需品の大半が配給の対象となりました。
昭和17年には味噌、醤油、塩の調味料が加わり、同年2月には衣料品の総合切符制が実施さ
れ、 一人あたり年間購入衣料品は都市部100点、その他80点とされ、背広一着50点、靴下
一足2点というように決められ、戦争が激しくなると実際は品不足のため入手は困難でした。
なかでも主食の米は愛知県では昭和15年7月、3割節約し代用食と混入して
使うよう指示があり、20年7月からはさらに1割減となり豆粕やさつま芋の代
用食が配給されました。
昭和15年に各家庭に配布された節米運動のチラシが残っています。 「過食過多は刃より
も多くの人を殺す」と書かれ、また「一日一軒で十粒の米を無駄にすれば、全国で一年間に
27、000俵、432、000円の損失となる」と書かれ、当時の節約に賭ける意気込みがみられます。
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
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