「平和を願って」 戦後50年 犬山市民の記録犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。 著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
世界と日本の歴史
昭和の初め、日本はニューヨークの株式大暴落から始まる世界大恐慌に見舞われました。当時
の日本は大国とはいうものの、産業の中心は農業と繊維などの軽工業でした。その主要な輸出品
であった生糸の価格も大暴落、昭和4年を100とすると3年後には36と3分の1近くまで落
ち込みました。農家の4割近くがその原料である繭を生産していたため、農家は大きな影響を受
け、さらに昭和6、7年には日本の米どころ東北地方が冷害に見舞われ、生活資金を得るため娘
の身売りをする農家も出たほどです。
会社では社員の首切りや給料カット、遅配が続出し失業者は300万人近くを超え、大学卒の
就職率も4割ほどで半数以上の就職が決まらず、 「大学は出たけれど」という流行語ができたの
もこの頃でした。
この不況乗り切りに、経済力のあるアメリカはニューディール政策というダムなど大規模な工
事を次々と行ない、公共投資にお金を使うことによって国民の消費意欲を高める経済政策をとり
ました。一方、海外に多くの植民地を持っていたイギリスでは、外国製品の輸入を拒否しイギリ
ス連邦を形成している国や植民地同士が関税(輸入品にかける税金)を安くするプロック経済政
策をとり、着々と効果をあげていました。
ところが経済力が低く植民地の少ない日本やドイツは、海外に目を向け植民地を手に入れるこ
とによって経済力を高めようとしていました。後にこれが太平洋戦争が起きた原因の一つといわ
れています。
昭和6年9月、日本に近くて消費人口や資源のある満洲(今の中国東北部)で日本軍が動き始
めました。これより20年ほど前、日本は日露戦争によリロシアから南満州鉄道を手に入れ、こ
の鉄道を守るということで軍隊(後の関東軍)を派遣していましたが、この軍隊が奉天の郊外で
鉄道爆破事件をおこし、中国軍と戦いを始めました。これが満州事変の始まりで、こうして昭和
20年の終戦まで十五年戦争といわれる、長い戦争の時代に入りました。
日本政府は戦いを拡大しない方針でしたが、陸軍は戦線を広げ、わずか5カ月で満州を占領し
ました。今度は翌年に、清朝最後の皇帝を元首とする満州国を作り、中国から分離させました。
そして政治の実権は日本人が握り、財閥を進出させ経済を支配しました。このような日本の進出
に、アメリカやイギリスはだんだんと神経をとがらせ敵視するようになりました。
これら一連の動きの中心となったのが軍部でした。軍部は中国大陸へ行けば生活も楽になると
宣伝し、政府も満蒙開拓団という名のもとに貧しい農村の人たちを集団で送り込みました。
ところが中国では満州事変が起きると、全土に抗日運動が起こり中国の国民政府は日本の軍事
行動を国際連盟に訴えました。国際連盟は総会の決議で日本軍の占領地からの引き揚げを勧告し
ましたが、日本はこれを拒否し、昭和8年国際連盟を脱退、さらにはワシントン海軍軍縮条約も
破棄して軍備の充実を急ぎました。
満州を手に入れた日本軍は、今度は中国との境の華北地方に目をつけ軍隊を送り込んだため、
この地方で日中両軍は一触即発の状態を続けていました。
ついに昭和12年7月、北京郊外で両軍が衝突、宣戦布告のないまま戦火は華北一帯に広がり
華中の上海にも飛び火しました。日本軍は当時の国民党の首都南京も占領しましたが、中国軍は
降伏せず、さらに首都を奥地の重慶に移し、徹底的に抗戦しました。
戦争が長引くと日本政府は昭和13年、国家総動員法を定め、国民を徴用したり物資を徴発し
たりすることができるようになり、国挙げての戦争を続ける態勢をとりました。
この頃ヨーロッパでは、ヒトラー率いるドイツが着々と軍備を増強していました。第一次世界
大戦に破れ、ベルサイユ条約で植民地もなくなり多額の賠償金を支払わされてきたドイツは、不
況から脱却できないているのはベルサイユ条約のせいだと、昭和10年これを破棄し再軍備を宣言
していました。
昭和14年、隣接するチェコスロパキアを併合、ポーランドにも侵攻し、ここに第二次世界大
戦が始まりました。さらにドイツは北ヨーロッパを攻め、続いてフランスをも降伏させると、勝
ち続けている勢いを今度はソ連へ向けたため、ヨーロッパのほとんどが戦場になりました。
ドイツ軍の華々しい戦果に刺激された日本の軍部は、中国を破ることができないのは米英など
が東南アジアを経由して軍需物資を送りつづけているためだとして、まずドイツに破れたフ
ランスの植民地であるインドシナ(今のベトナム)北部に兵を進めここを占領、ソ連と中立条約
を結んで北方からの脅威を取り除いた後、南方の資源を手に入れようと武力進出の機を窺ってい
ました。
この日本の動きに一番神経を尖らせていたのがアメリカでした。中国との戦争がなかなか終わ
りそうにないため、軍需物資の輸出を制限し、さらに昭和16年の春から始まった日米交渉では
中国からの日本軍の撤退を要求、さらにイギリスやオランダも加わり日本への石油の輸出を禁止
したため、日本は経済的に苦境に立たされていました。
中国からの日本の全面撤退の要求について一歩も譲歩しないアメリカの強い姿勢に、このまま
では戦争は避けられないと判断した軍部は密かに戦争の準備を進めていました。
ついに日米交渉がゆきづまつたのを見計らって昭和16年12月8日、日本海軍はハフイ真珠
湾のアメリカ太平洋艦隊の基地を攻撃、同時に南方のマレー半島に陸軍が上陸、ここに太平洋戦
争が始まりました。
開戦後、昭和17年の半ばごろまでは、準備万端整った日本軍が主導権を握っていました。こ
の半年の間に西はインドとの境のビルマ(今のミャンマー)、南はオーストラリアと境のインド
ネシアやニューギニア、東は太平洋の中央付近までと広い地域を占領、石油やゴムなど南方資源
を活用して長期不敗の態勢を整えたかにみえました。
しかし経済力のあるアメリカは着々と反攻の準備を進め、17年6月、ミッドウェー海戦で、
これまで不敗だった日本海軍が大敗すると、戦局の主導権はアメリカに移り始めました。
ヨーロッパでもソ連に侵攻していたドイツ軍が16年末から翌年の冬将軍のため戦意が奏え、
逆に守勢に立たされるようになりました。18年に入ると、スターリングラードでドイツ軍が敗
北、日本軍もソロモン群島のガダルカナル島から撤退、9月に日本の同盟国であったイタリアが
降伏するなど、日独伊の枢軸国側の敗色が濃厚になってきました。
資源や生産力において優るアメリカ軍の戦力が増強されるのに対し、日本軍の戦力は低下する
ばかりで、ソロモン群島、ニューギニア方面、南洋諸島が次々と奪われ、19年に入ると日本の
生命線といわれるマリアナ諸島が次々と占領され、フィリピンが戦場となりました。ビルマ方面
でもイギリス軍の反撃で守勢に立たされていました。 一方、アメリカの潜水艦による海上輸送路
の攻撃も盛んになり、日本への物資が入りにくくなったため、軍需生産も18年をピークに激減
しました。
19年末には日本本土への空襲も始まり、国民の間には戦争が身近に感じられるようになりま
した。戦局が日本に決定的に不利になってくると、なんとか挽回しようと日本軍は特別攻撃隊を
編成、飛行機や「回天」といわれる小型潜水艇に爆弾を積んで体当たりをする戦法がとられ、た
くさんの若者たちが空に海にと散っていきました。
20年に入ると3月以降空襲が激しくなり、連日都市の無差別爆撃があり、犬山にも米軍機が
来襲するようになりました。日本本上で唯一の地上戦が行なわれた沖縄では、日米の軍人以外に
たくさんの民間人も戦火に巻き込まれ、合わせてその数は約20万人以上ともいわれています。
5月にはドイツが降伏、日本だけが世界を相手に孤立することになりました。
8月に入り広島、長崎に原子爆弾が投下、両市合わせてその年の暮れまでに21万人が死に、
今も後遺症で悩んでいる多くの被爆者がいます。さらには日ソ中立条約を破棄してソ連も参戦、
かつて最強といわれた関東軍も南方の戦線に精鋭をとられ壊滅しました。この時の戦闘で開拓団
を初め民間人も多数巻き込まれ 今も肉親を探す残留孤児の悲劇が続いています。
このような状態に、これ以上戦いを続けることは不可能と判断した日本は、日本の国上の縮小
や軍隊の武装解除などを盛り込んだ連合国側のポツダム宣言の受け入れを決め、15日、終戦を
迎えました。
この戦争による日本国民の死者は200万人以上、さらには海外の戦場となった中国や東南ア
ジア諸国などの被害は、計り知れないほど大きなものでした。
愛知県犬山市 平成9年8月15日発行
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