「ノーモア戦争 平和シンポジウムに寄せて」
これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。よってこの記事の無断転載は厳禁です。
戦争体験者の証言
「筆舌に尽くせぬ原爆の怖さ」
安藤三枝(広島で被爆)=犬山市犬山東古券
この世の地獄、私は八月六日広島市千田町で被災し、二時間余りかかり字品の陸軍病院の広場に連れて来られ、炎天下に顔を布でおおって(顔と頭に大けがをしていたので)寝かされていましたが、周囲のあまりの叫び声、泣き声の喧噪にそっと布を取った時、私はあまりの光景に思わず息が止まりそうになり、付き添いの母に抱きつき恐怖におののきました。
私の回りに五、六人の少年らしき人が顔は二倍位に大きく、唇はタラコの様にふくれ上がり皮膚は焼け黒くたれさがり、パンツ一枚(当時は黒い服を着せられたため黒い物は全部溶け、その下の皮膚は焼けただれ、白いバンツのみそのままでした)の少年が生き絶え絶えに「坐らせて」「立たせて」
「寝かせて下さい」と泣きながら言っているのです。
母は一人一人に答えていました。 「水。水…」と叫んだ子に急いで布に水を含ませ、そっと口元にあててやると少年は布に吸いつきながら力尽きて死んでいきました。
「僕の頭の上に油脂焼夷弾が落ちてきてこんなベタベタになった」と全身火傷を負った少年の声がちいさくなったら「お母さん」と言いながら息を引き取っていきました。
辺りを見ると頭が剖れ血がどす黒く全身を染め死んで動かない赤ちゃんを、火傷でただれた姿で背負い、
「子供だけでも助けて」と走り回る母親の叫び。自分の身内を探し狂人の様に走り回る人。
看護婦さん、死んでしまう。早く注射をして」と大声で叫ぶ人。何百人、何千人が一人として人間の顔や姿をしておらず、地獄でもおそらく見ることのできない有様でした。
「死んだらだめよ」 「しっかりして」 「早く見て下さい」と言いつつ息を引き取る人々に、医者も看護婦もいなく、医薬品も底をつき、応急の手当てもできない、手のほどこしようのない状態でした。
それから後日も筆舌では言えないことばかりで、原爆に関した映画や書物でもあんななまやさしいものではありません。その中でもあの病院の光景は今も生々しく心の中に生きております。
原爆の恐ろしさ怖さ等、人間が人間を苦しめ、不幸に落とされるなど、何が何でも許せなく二度とあってはいけないことと、平和を心から願う一人として思い出したくない当時を筆にいたしました。
愛知県犬山市役所総務部企画課発行 1995年発行
「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて」より転載
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)
※「平和を願って 戦後50年犬山市民の記録」
(自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.2)の
”「お母さん!」・・・死んだ少年”と同じ内容です。
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