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「ノーモア戦争平和シンポジウムに寄せて

これは昭和60年に平和都市宣言をした愛知県犬山市の市民の戦争体験記集です。
犬山市企画課の許可を得て、ここに転載致します。
著作 権は犬山市に帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

「犬山と戦争のかかわり」

 「第二次世界大戦」といっても、君たちにとってピンとこないかもしれませんが、君たちのおじいさんやおばあさんにとっては、決して忘れることのできない苦しい思い出なのです。

 日本では「大平洋戦争」と呼ばれ昭和十六年十二月八日から二十年八月十五日まで三年九か月にわたり、アメリカやイギリスなど連合国を相手に戦いました。それより四年前の昭和十二年七月には、日中戦争が起きたためこれを含めると八年間も戦争を続けたことになります。

 犬山市からも多くの若者が中国や東南アジア、南太平洋中の各島などにわたり、戦死した市民も多くいました。戦争も終わりに近づくとアメリカ軍の本土空襲も始まり、市内に軍需工場(主に兵器などを作る工場)がなかったものの、名古屋市や各務原市などに飛行機を作る工場があったため、これら軍需工場を爆撃するアメリカ軍の飛行機が犬山市上空にも現れ機関銃による被害にあいました。また広島や長崎には原子爆弾が落とされ、今でも犬山市内には被爆した人達が住んでいます。そこで犬山市と戦争のかかわりについて述べてみました。

[空襲] 空襲の記録によると、犬山市に最初の米軍機が来たのは昭和二十年二月二十五日夕方のことでした。名古屋市を爆撃した三編隊のうちの一機が犬山市上空を旋回し、多治見方面から高山を通り日本海へ抜けました。さらには四月六日深夜に一機、同月二十八日にも償察機一機が飛来、五月二十四日には二百五十機の大編隊が岐阜から犬山を通過しています。

 それまでもは上空を通過するだけでしたが、六月九日午後二時ごろには小型機五十機が来襲、犬山市街地、五郎丸、羽黒、楽田方面で機銃掃射をしています。

[陸軍病院]明治村の西郷従道邸付近に、一年余り陸軍病院がありました。この付近は昭和の初め頃、入鹿温泉と名づけられた観光旅館が営業されていましたが、戦争が激しくなった昭和十九年春、陸軍省に接収され陸軍共済病院の安田病院分院(入鹿病院)として生まれ変わりました。その後、病院も十四棟に増設され、胸部疾患者の療養が行われていました。今は明治村の敷地となっており、当時の面影はまったく見られません。

[地下工場] 楽田に地下工場が建設されていました。名古屋にあった飛行機製作所が空襲により破壊される前に、機械をそっくり移そうというものでした。山の東西の両側から十二か所ずつ約一キロにわたって掘り進み、巨大なトンネルの工場が作り始められました。昭和十九年末から約千人の作業員が昼夜の突貰工事で、ほぼ95パ‐セントまで完成させましたが、終戦となり工場として稼働することはありませんでした。このほか善師野にも地下工場の建設が進められていました。

[学童疎開(そかい)]戦争が激しくなった昭和十九年六月、政府は空麗から子供を守るため田舎の小学校へ移す学重疎開を決めました。このため犬山市内の小学校では児童数が多くなりました。楽田小学校では十九年四月の児童数が641人だったのが、二十年七月には1105人と二倍近くまで増えました。これら都会の子供たちは近くのお寺などで寝泊まりしましたが、親元を離れて生活するため、子供たちの多くは不安な毎日を送ることとなりました。

          愛知県犬山市役所総務部企画課発行  1995年発行 
          「ノーモア戦争
平和シンポジウムに寄せて」より転載
           (自費出版の館内の地方公共団体発行 NO.1)


戦争体験者の証言 筆舌に尽くせぬ原爆の怖さへ
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