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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

9.リナボ病院               

 二十年四月十四日 リナボ建築隊
 リナボヘ到着、空き家に入る。病院建築は壮大なジャングルの下枝を切り払い、上空からは完全に見えない形で、二階建ての現地小学校を移築して居るのです。敵機の目をかすめつつ、小学校の取りこぼち、材料集積を行い、早朝と晩五時以降の敵機がお休みの中にトラックで運ぶのです。朝八時迄に輸送を終り、ワダチの後を草で覆い隠します。建築は専門家が行い急ピッチで進行して居りました。

 此所へ来ても問題は矢張り空腹です。材木を肩の上に乗せて運ぶのですから、空腹のお粥腹ではどうにもならんのです。又もや残留住民との間で、キニーネ、其の他とトウモロコシ・甘藷。バナナ等と交換が始まりました。でも数日で此方の種が尽きました。仕様が無い又泥棒を始めようと一日歩き廻りました。其うして目星をつけたのが「師団長用藷畠」と大看板を上げた、二、三十アールの畠です。暗くなるのを待って、五・六人で出掛けました。歩哨が立って番をして居りますから見付かれば弾の雨です。文字通り生命がけの盗人です。然も様子を見て居ると、たまにですが、トラックが通って、ヘッドライトが背中を撫で回すのです。ソロソロと地面を這い乍ら前進、畠へ入ってゴボー剣と手で掘ってみると、大きな藷が出るわ、出るわ、流石に師団司令部の連中が占領しているだけの値打充分です。

 僅かの間に携帯天幕の風呂敷が幾つか一杯になりました。其れでソロソロと引返しました。が此の引揚時が一番危険です。気があせり荷物があります。出発時くれぐれも注意して置きましたが、慌てずにユックリ、ユックリ這い進んで、林の中へ入ったときはホッとして大息を吐いたものでした。喜んで家に帰ると「班長顔どないしたんや」と言われて兵隊の顔を見ればお化けそっくり、泥まみれのデコボコ顔はツクネ芋を掘り出した時の様な顔ばかり。腹をかかえて大笑いですが、気が付くと顔も手も、かゆいかゆい、たまりません。夢中で藷掘りをして居る間、たっぷりと、ブヨに刺され泥まみれの手で顔をかいたのです。顔を見合わせては何度も大笑いしました。

 続いて病院開設準備で増援隊到着、発着から松岡伍長も来て一緒に働きました。此から松岡伍長の話が良く出て来ます。穏やかで賢明、極めて誠実、信義厚き人です。二、三才年長で予てから心頼みにして居た人です。

 扱此の頃よりリナボ部落への爆撃がボツボツ始まりました。残留住民の或る家に、老夫婦が二人で住んで居り、名古屋コーチンに似た、卵肉兼用の大きな鶏を五、六羽飼って居りました。或る日其の家が爆撃され火の手が上がりました。松岡と私は顔を見合わせ、直ちに突進しました。爆撃で開きにくい入口の戸をこじ開けて一歩足を踏み込むと、土間で老夫婦が胸腹部の臓器をだらっと出して倒れて居り臨終寸前です。二人共息を呑んで棒立ちになりました。其の時足許を鶏が飛び出したので、我れに帰って慌てて三羽程捉えて帰りました。火はもう迫って居り振り返って、老夫婦に心から御冥福とお詫びをしました。

 其の晩早速鶏料理の御馳走になりましたが、老夫婦の最後が目に浮かんで、折角の鶏料理も味気無いものでした。

 我々日本軍と米軍とは、覚悟の上の殺し合いですから、悲惨さは未だしも許せますが、巻き添えに遭った住民の方には本当に気の毒な事でした。更にシラエ峠から入った部隊が「リナボで数十名の青年を集め水牛に積んだ食糧と共に徴発したらしい」との噂を聞きましたが、此の人達が健在であれば良いのにと思った想出があります。こういう例は沢山見ましたが今日でも申し訳無いなあと思い出します。(昨今日本で「有事の際」などと称して自衛隊の高級職業軍人が、日本が戦場になる日を、暗に待ち望んで居るかの様な発言を良く見受けますが、どんなお心算なんでしょうか)「クラセヴイッツが戦争論の中で言って居る様に、戦争とは他の手段を以ってする政治の継続であります。即ち政治の本流は飽く迄も戦争に持ち込まない事であるのに、元海軍主計中尉殿は、陸軍大将が果たせなかった夢をもう一度と念じているらしい事は甚だ残念です。カイゼルの夢を果たそうとしたヒットラー伍長の様に。」

 此の頃はもう逃げ込む事は既定の事実だったので、原資を種々と工面しては、現地住民から、小豆・小麦・米・トウモロコシ等を入手して発着部で秘密に貯えました。一粒でも多く持って山に入りたかったのです。

 米軍のピラ撒布は毎日の行事でした。ヤシの木一本生えた小さな島でボロ服を着た日本兵が小手をかざして「我が海空軍は何所へ行ったのだろう」と言って居るビラ。又四月二十一日頃撒布されたビラ。

 「諸君は深山に籠り一戦を交えんとしても、悪疫は肉を削り、飢餓は骨に徹するであろう…………」の一文だけは今日でも忘れられない名文でした。米軍に教えられる迄も無く、我々は充分承知し、覚悟を決めて居るのです。「辛いだろうなあ」と。一番痛い、イヤな、眼をそむけ度い事を、ズバリ指摘されたのです。ビラを手にした兵士達は皆黙って見て居るばかり。私の手帳にも、ビラの文句と、只餓死の一途あるのみと記されて居ります。
     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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