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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

8.オモナイ収容所               

 二十年一月二日 オモナイ収容所
 此の日の晩命令が出て前例通り、オモナイ患者収容所発足、長として長沢中尉、副・原少尉、下士官山田軍曹、岩本、平岡伍長、兵二十名の編成だった。長沢中尉は極めて印象薄く恩い出は無い。山田軍曹は青白い顔をした長身の人で、おとなしく控え目で、岩本と私が好き勝手、やり度い放題をしても何一言も言わなかった。

 一月三日 夜半 マライバライ着
 一月四日 バンコット
 一月五日 ダムログ
 一月六日 オモナイ到着 トラック輸送だったと思う。
 一月七日からプランギ川右岸、カガヤン−ダバオ道の東側でジャングル内に四、五十米入った所に、空襲に備えて、将校、下士官、兵、病室と分散して小屋を建てる。柱を建て、床は手頃な丸木を切って来て並べ、干草を敷き天幕を敷きました。屋根は草を刈って当てました。炊事場は一寸はなれた湧水のある所へ建てた。

 道路西側はススキ原で、現住民の廃屋が五、六軒残って居り、オモナイの旧部落跡だった。少しはなれた所に三坪が四坪の畠を作り、何所かから甘藷の苗を探して来て植え、せめて甘藷の葉のおひたしでも食べようと楽しみにしました。

 二〇〇米北へ向って川の方へ下って行くと橋があり、道路西側とプランギ河左岸の間に、輜重兵三〇連隊本部があり食料のお世話になった。道路東側プランギ河左岸台地上に、輜重車牽引用の水牛が数十頭飼われて居た。又輜重本部には故郷佐野、深居本家の養子の兄で、東浦町の正木曹長が居り種々便宜を頂いた。便宜とは何ぞや、此の当時麻袋入り六十K入り米一俵は、実質七、八Kから三十K位まで様々なのです。動く途中でそれぞれ関わった人達が少し宛手数料を持って行くからです。中身の多少は論外で総べて六十K入りです。

 参謀本部の動員計画では全然知らない事です。其れで正木曹長が成る可く多い袋を選り出してくれるのがとても嬉しかった。野菜も開拓勤務中隊(ダバオ居住日本人の百姓中隊)が一週に一度位輜重本部に持って来るので、カボチャ・甘藷・ナス等を少し宛もらった。入院患者を大巾に水増し、しても一日一合余りのお粥を食べるだけで副食も殆ど無く、腹の減る事はひどいものです。毎日「参謀本都のバカッタレ、腹が減っては戦は出来ん事を知らんのか」と幾ら罵っても腹の足しには成りません。

 其れで用が無いと一日寝そべって、一日二食か三食かの議論です。二食論は炊事係が楽であり、食べる為のカロリーが減ずる。三食は排尿回数が増える分カロリー消費が多く体力消耗を進めるから二食が良い。と理論的。三食派は理屈は判るが、生まれてずっと三食だ。何よりも水ブクレでも良い。三度満腹感が味わえる。と此方は感情派。馬鹿話かも知れませんが当時は仲々真剣でした。業務はサランガニ方面より北上する部隊の途上診療でした。サランガニ半島は戦前牛肉缶詰用の大牧場が多くあり、其れが野性化して大変な数が居り部隊の主食的な存在が牛肉だったらしいのです。其の為かどうか熱帯性の潰瘍がひどいのです。マラリア患者、下痢患者も相当居りました。完全な健康体などは探さなければ居りません。体中赤チンを塗って、真赤な体になった患者などはザラです。又食べる話ですが、前述の通りなのでたくさんの、背にコブを付けた牛を各隊は連れて居り、時々牛肉をもらって大変うれしかったものです。

 話替って或る時対ゲリラ戦で負傷した中尉が運ばれて来ました。強健四人が担架で担ぎ、二人が交代要員で付添い、エッサ、エッサと休みもせず、何時聞もかかって患者収容所まで連れて来たのです。炎暑の中、日覆いの木の枝を上半身に乗せて、中尉殿を助けたい一心でヘトヘトになって連れて来たのです。が見た瞬間「悪いな」慌てて脈を見れば心臓は止まって居り軍医を呼んでも駄目です。脱血死なのです。止血帯が良く利いていない所へ、ゆすくり通しで、出血が止まらなかったのです。でも連れて来た兵隊の真底心配そうな顔を見、又死を告げられてガックリ落胆して居る兵隊には「御苦労さんだったな」以上に「時間をかけて、ゆっくり動かさずに連れて来る可きだった」とは言えず仕舞でした。ションボリと又担いで帰る後姿を見て本当に頭が下がりました。死者と担送者の双方に対して。

 昭和二〇年二月十一日 キバウエ訪問
 予て北方キバウエに、和田少尉を長とした患者収容所が出来た事を知って居りました。一体どんな様子か、特に食糧を何うして居るか知りたかった。其れで此の日早朝、腰巾着の徳田上等兵を連れて訪問に出発する。

 キバウエは一寸した部落跡です。特に日本軍は占領後、ダバオとの間に直通の簡易道路を作ってからは重要な拠点の一つになって居た。又キバウエは、山又山のオモナイとは異なり、平坦な土地で近くに現地人の小部落が点々とあるらしい。其の為キバウエ南方は、ゲリラが出没する事を知って居りましたが、強行軍で、日のある間に到着すれば良い。と出発したのです。其の途中

 ひらひらと群れ飛ぶ蝶や花の如

の句を残して居ります。

 呑気な話でゲリラ地帯を、悠々とキレイな蝶の群れを、賞でつつ歩いたらしい。

 到着すると和田少尉が大変喜んで呉れまして、白い米の飯を頂きました。聞きますれば近くの(四、五キロ離れた所)のモロ族部落と医療を通じて友好関係を結び、食糧補給をして居るらしい。只一つ困るのは、訪問すると軒下に頭骸骨を並べて飾ってあり、先祖の首狩りの自慢話しをする事だそうです。

 興に乗ると蛮刀を振り廻して、我が先祖が如何に勇敢だったか、と手真似、足真似で、長々とやられるのには閉口すると、笑話しをして呉れました。でも其のお蔭で余り空腹を感じては居らず、「良いなあ」と感じました。勿論人数がオモナイより少ない点も幸いして居りました。翌二月十二日には、
 青々と皿に盛られし春菊や

と書かれて居り、野菜畠も作って居る様でした。

 二月十三日の句が無い所より判断すれば、此の日キバウエよりオモナイヘ帰ったのでしょう。

 所で今回のキバウエ訪問は、彼我の状況が余りにも大きく違い、(特に軍医の性質、平地と山地、原住民の密度、等)オモナイは座して、空腹に堪えるより方法が無い事を悟らされました。

 話替って通過部隊から肉をもらって食べると、肉を食い度い、腹一ぱい食べたい願いが強くなります。文字通り餓鬼であります。兵隊から「何とか考えてくれ」との要求は強まる一方です。

 其れで私と岩本は考えた末、「止むを得ん、輜重の水牛を盗もう」と一決です。内地からの軍馬は兵器だが、水牛は現地で拾ったものでは無いか、我々が拾っても構わないと言う理論づけをしました。そうして二人だけで或る豪雨の晩水牛を引き出す事に首尾良く成功しました。翌朝兵隊に「今朝早く通過中の部隊から水牛を貰って来たから、解体を手伝え」と言って直ちに屠殺料理しました。乾パンの空き缶で真先に肝臓を煮て食べました。食べている間にも力が湧き上って来る様に感じました。其れから暫くは一日二回宛火を通して保存しつつ、軟らかくなって行く肉を食べて充分満足しました。軍医には「通過部隊から肉をもらった」と称して少し持って行ってやりました。(将校当番には厳重に口止めしました)所が次の日輜重連隊本部から「下土官一人来い」との事です。私が行くのが常例ですので何事遣らんと気軽に出掛けました。到着すると連隊副官が大変な見幕です。「コラッお前等我が部隊の水牛を盗んだな」との事。「其れは全然身に覚えがありません」「しらを切っても駄目じゃ、さっさと白状せい、お前所の軍医が昨夜アルコールと水牛肉を持って来て内の医務室で宴会をして帰っとるんだぞ」ハハア内の軍医さん盗まれた家へ盗んだ肉を持ち込んだのかいや、此りゃいかん。「アア彼の肉は通過部隊からもらったものです」「何を言うとる彼の肉の鮮度は昨日屠殺じゃ、然も水牛じゃ、通過部隊は肉用牛じゃいい加減に白状せい」顔を真赤にしてドナリ付けられました。でもまさか私の部隊へ来て屠殺場所の点検まではするまい。押通せ。「イイエ、私はもらいました」此の押し問答を見て居りました正木曹長や、宴会に参加した輜重の軍医が種々ととりなしてくれまして、何とかうやむやで済みました。帰って来ると、岩本が心配顔で待って居り、兵隊も心配して集まって来ましたが「斑長、何うも臭いな、とは思って居りましたが、輜重の水牛とはやりましたね、イヤどうも御苦労様でした」矢張り体を張って食糧調達をして居ると兵隊も心から信頼してくれる。嬉しかった。其れでも肉のある間は大変楽しかったが無くなると又食い度い。日が経つ程腹は減る。肉を食い度い。

 二十年二月二十六日、飢えた儘早如月も後二日。

 猿打ちて喜びさわぐ兵士達

同日の俳句が残って居ります。

 輜重の警戒は厳重だし、十K程離れた山モロ族の所へは恐ろしくて寄り付けない。「川へ行ってエビでも取って来うや」と水浴を兼ねたエビ取りも五g程のエビを一匹か二匹宛。然も通過部隊が滅って、三、三、五、五、患者部隊が通るだけとなり食糧のおすそ分けも無くなった。

  秋風に誘はれ散るやモロの首(ミンダナオの二、三月は日本の秋)

 オモナイ 三月七日
 初版本では思案した末に書かなかったが、此の日通過部隊が、本街道沿いの旧部落跡で宿営した後、モロ族青年を斬首しました。連行して居たが、虐待されて歩けなくなり、処刑して居り、見物に行きましたが、誠にイヤな風景でした。彼等が平和に暮して居る土地へ日本軍が侵入して、食料、家畜を強奪するのですから、抵抗するのが当前です。私自身、若し淡路島へ、外国軍隊が侵入し、日本軍の様に、殺人、放火、強盗、やりたい放題をやれば、私自身ゲリラ戦をやるに違い無い。何で黙って頭を垂れて居ようぞ。と思い、頭と胴が分れたモロ族青年に、心中秘かに手を合わせ、愛国の勇士の冥福を祈りました。

 弥生より糧渡されず草と木で

三月十五日の句あり。三月頃より入院患者が無くなり極端に減量された様に思います。

 其れで思いついたのは、開拓勤務中隊が野菜を積んだ輜重車を引張って来る現地馬、小型だが良く肥えた栗毛の馬です。馬肉は水牛よりも軟らかく美味しい。早速ゴボー剣を研ぎ、蛮刀もサビ落せ、廃屋の木を運べ、マナ板ももっと作れと言う次第、内容は言わずとも兵士は勇み立ちます。山田軍曹は黙った儘だが腹の空いたは同じ。軍医さんは全然知らない。見えない。聞こえない。感じない。

 三月二十一日の句に、

 仇情け馬泥棒も朝の露

とあるから、三月二十日の夕刻待望のお馬さんがやって来た。プランギ北岸川を渡った橋のランカンに、つないであるのが一寸困ったが、連れて来た兵士は水浴をして輜重隊で食事中だ。真暗闇になるのを待って橋を渡り、岩本が手綱を取り、私が尻たたきを引受ける。でも馬子が更ったので馬は動かない。仕様が無いので木の枝で無茶苦茶になぐり付けて歩かせた。本道を登ってワキ道へ連れ込み、一寸奥の方の木につないだ。後は地下足袋、防毒面を細く切って木に挟んだ明かりを頼りに馬の足跡を消すのに二人で大汗をかいた。暫くすると開拓中隊が遣路上を何回も馬探しをして居た。

 私もウトウトしつつ夜明けを迎え、朝霧濃い中をジャングルの奥深くへ馬をつなぎ直した。此の途中で野性化した鶏が飛び出したので探した所卵数ヶを拾いました。帰って又毛布を被って寝たふりをして居た。すると「おい起きろ」の声。五、六名来た感じだが知らぬ顔で寝て居た。「おい起きんか!」と床をたたいて催促、止むを得ず目をこする真似をしつつ上半身を起こすと「おいお前等馬を知らんか、馬を」と中尉さんが大声を出す。「へえ昔の武士はクツワの音で目を覚ましたそうですが、今の兵隊は茶碗の音以外目が覚めませんので、ヘイ」ワザとハイと言わずヘイと言ってからかった。「おのれ本官を侮辱するのか、敬礼をせんのか、敬礼を!」仕様が無いペコリと三人頭を下げる。「コラッ馬を何所へ隠した。お前等の部隊の入口で足跡が消えて居るんだぞ、何所へ隠したんだ!」「ヘイ幾ら言われても知りませんのでヘイ」の一点張り。其の時中尉さんの横に居た開拓中隊の兵隊が、トンキョーな声で「隊長殿其所に足跡があります」と中尉の傍を指差して居る。思わず上り端へ顔を出して見ると、御指摘通り、消し忘れた足跡が一つクッキリ、と有るでは無いか、エエイ仕様が無い。勝手にせい。「何と申されましても、知らん事は、知らん事です」山田軍曹、岩本伍長は、スポークスマン任せで黙んまり。「エエイ生意気な、たたき切ってくれる!」ナー二他部隊の兵士を殺す事なんか出来るものか。捨て置け、捨て置け。「おい手分けして探せ」「ハイ」と中尉の部下は四散する。三人は知らん顔でだんまり。中尉はにらみ付けた儘だが部下が居なくなると一寸息がぬけた。もう大丈夫と私は相変わらずだんまり。「おうい馬の糞があるぞ」と大声が聞こえた。で中尉さんも横っ飛びに昨夜のつなぎ場所へ走る。(此の当時軍隊の規律はスッカリ緩んで居た)。暫くガヤガヤと話し声、十分か二十分すると意気揚々と兵隊が裸馬に乗って来る。「見付からなかったら打ち切ってやるんじゃが、見付かったから勘弁してやる」と言い捨て立ち去った。栗毛のツヤツヤしたお尻がプルンプルンしつつ去って行く後姿を見ると思わず生ツバが出た。此の騒ぎで兵隊も集まり残念がる事、残念がる事。「美味そうな馬やったなあ」と。

此れには後日談があります。確か七月頃山中をトボトボ歩いて居ると一人の将校さんがにやにやしながら近づいて来る。ハテナと思って居ると「久し振りやなあ」アッ判った。開拓中隊の中尉さんだ。どちらからとも無く座った。

「お前見たいな小面憎い事を言う奴は滅多に無いぞ」「イヤー彼の馬は美味かったでしょうなあ」で二人は笑った。それから一寸話し合って、双方共にニコヤカに年来の友と別れる様に「お前も頑張れよ」「中尉殿もお元気で」と手を振って別れたが、何だかとてもなつかしい人に合った様な温かい気持ちになりました。

 四月九日 オモナイ収容所閉鎖
 本日収容所閉鎖マライバライヘ向う。
「去るならば又懐かしやオモナイも」車上、と手帳に記されて居りました。思えば三ヶ月空腹と戦い、思い出多き土地でした。

 四月十日から十二日迄、ダムログで通過部隊のホテル、草ブキのイブセキホテル、廠舎に止まりました。
此の時大変な爆撃だったらしく、

 日本晴轟々覆う敵の群 四月十日

 爆撃に虫の音さえも絶はてて 四月十二日、とあります。

 四月十三日 マライバライ帰還
 帰還の申告を隊長に済ませ、収容隊は解散各自各部へ戻る。私も発着部へ帰り、装具を卸し久方振りに家族とも言える戦友達と談笑する。夕食は雑炊だったがオモナイとは全然違う。「本隊は良いなあ」とつくづく感じました。何よりもビツクリしたのは、二十三名の看護婦が病院に居る事だった。聞けばダバオ陸軍病院勤務の日赤兵庫支部の人達で、日赤三七六救護斑の人達が転属して来た由です。若いピチピチした日本人の娘さんを見た時、何だかまぶしいものに会った感じでした。更に大変な美人揃いに見えました。

 所が其の晩日夕点呼の際、例の「下士官平岡を長として各部三名宛」の使役隊編成です。リナボに於ける四野病の建築使役隊へ明日出発、との事。文字通りガックリしました。

     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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