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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

10.山中への敗亡行進 その1               

 
二十年五月四日 糧秣収集
 昨夜の命令で例の通り、「下士官平岡を長として、各部二名宛」のカバンハン方面糧秣収集隊が編成されました。朝八時の米軍機御出勤前に行李の稲田伍長のトラックで出発。此の当時山へ逃げ込む事は切追感を持って居りましたので、此の度の食糧集めは極めて重大な事だったのです。

 トラックはカガヤン〜ダバオ街道へ出て南下、次いで左折してワキ道へ入り、通行可能の終点で我々を降し、直ぐ飛んで帰りました。下車した所は一軒の廃屋の前で、細道がジャングルの中へと通じて居り、奥の方にカバンハンなる部落がある筈との事です。物々交換用の資本は塩です。我々は歩いてジャングルの出口に着き、眼前の草原を見渡し暫く考えました。此の地形では、相手が戦意を持って居れば、地理に明るい彼等とは対抗出来ない、と判断しました。此うなれば捨身で平和な商売人として徹するより方法無しと決心。若し彼等が悪意を持って皆殺しにし、塩を奪おうと考えても止むを得ん。銑は此所に置こう。万一の時は全力疾走して此所迄帰り、銃を手にした方が防衛上も得策と判断しました。勿論此の決心は仲々心重いものでした。十三名が赤裸で敵中へ入るのですから、でも私は決心しました。そうして竹の先に飯盒をブラ下げ草原の入口から「チェンジ、チエンジ」「ライスチェンジ」と大声で怒鳴り乍ら前進しました。走らずユックリと歩かせました。暫時の後、チョロッ、チョロッと人影が見え出しました。武器を持たない事を確認して居たと思います。其の内に段々近付いて来る。此の時は全身緊張の固まりでした。終いに目の前に立ち現れました。一生懸命作り笑いをし、塩を取出し彼等に少し宛分配しました。彼等は汚れた手のひらに乗せられた塩を早速傍らのバナナの枯葉に移し、後、手の生地が見える迄、なめまわして居りました。配り終えてホッとしました。「先ず敵意は無い」「安心!」彼等もニッコリすると手真似で此所で待てと言う。傍らの木陰で待って居ると、ゾロ、ゾロと多勢出て来る。御挨拶として塩を少し宛進呈する。途端に皆ニコニコする。続いてモミを二斗袋でかついで集まり出した。又白米を持って来る者も居り、老女が飯を炊いてくれる。或いは甘藷を炊く。彼等は藷を蒸すので無く、ゆでるのです。バナナを持って来る。大変親切です。(彼等はモミの儘貯蔵し毎日食べるだけ、お月さんの兎の餅つきの様にして精白するので白米の手持ちは少ないのです)我々は早速バナナから手を出し、心配が吹き飛んで、心からニコニコと手真似や、半英語?で交歓しました。また炊事をしてくれた老女達にも塩を渡し、米モミ等にも幾らであったか忘れたが、飯盒の掛盒で塩を渡して行く。一時は子供も入れて、四、五十人にも取り巻かれたが敵意は感じられない。矢張り善意で接すれば、善意で応じてくれた、と大きな喜びを感じました。其の間に食事も済み、更に飯盒に夕食も詰まったので、約六十袋のモミを例の「廃屋へ運んでくれ」と交渉した。途端に警戒心が出て「イヤだ」との事。それを何とかなだめスカシて隠してある塩を沢山渡すからと話を進めやっと運んでもらう事に決めた。兵二人が先頭に立ち、続いて輸送隊、残りの兵隊の順で歩き、ジャングルに入ると五、六名を何とは無く遅らせて、銃を持って深くしのばせ、万一武装住民の追跡在る時は此所で食止める事にした。輸送隊が平和に帰れば、其れを林の中で見送り廃屋へ帰る様手配した。充分慎重に構えた訳です。事は大変うまく行き念の為二、三の歩哨を立てて、後は廃屋の中で満腹後のヒル寝を楽んだ。空は青く小鳥がさえずり平和そのものです。

 山へ逃げ込む事になれば、衛材をかっぱらって、手土産にし此所へムコ入りでもしたら、悪くないだろうなあ、等思いましたが、矢張り故郷の家族の事を考えれば、何うしても山へ入り尚生きて帰る以外進路は無いなあ、等種々の想いが去来しました。

 所が四時過ぎ、まだ敵機活動時間内だのに、稲田伍長のトラックがやって来ました。「皆山へ入ったぞ、米軍は極めて近いらしい、急げ、急げ」との事、大急ぎでモミを積み、其の上に兵隊が乗り、空を気にしつつ、帰途に就きました。カガヤン−ダバオ街道へ出たが、砲声も聞えず米軍の気配は無い。「おかしいな、何所に米軍が居るのだろう」と思いました。(後日調べて見ると、此の日五月四日はるか南方キバウエに米軍第一線が進出した程度で、北方カガヤンへは五月十日米軍上陸であります。其れなのに五月四日患者を置き去りにして逃げ、大量の貴重な衛材を焼き捨てたのです。マライバライに敵到達は五月二十日、マナゴツク敵侵入は五月二十二日であります。

 何故貴重な十五日間を山上でポカンとして居たのでしよう。何故患者収容所を極く一部の者に押し付けたのでしょう。何故東方への衛材輸送を精力的にやらなかったのでしょう。何故大規模食糧収集をやらなかったのでしょう。此の時間を有効に使って居たならば、本隊二一〇名中生還五名と言う様な悲惨な結果を招かなかった筈です。一伍長二十五才の私が、ゲリラ地帯へ武器を置き、捨て身で食糧集めに行って居るのです。隊長が先頭に立って活動していたら、こんなギセイ者は絶対に出なかった筈であります。隊長並びに庶務主任衛生中尉の指揮能力不足、或いは怠慢は犯罪的であります。私が彼等を軽蔑するのは、個人感情よりも大きな義憤を感ずるからであります)

 そうして暫く本街道を走ってリナボ街道へ入り、リナボの部落へ入ると、向うから続々患者達がお互いに助け合って歩いて来るのです。衛生部員はついて居りません。「何うしたのか」と車上から聞くと「病院長から教会堂へ行け、彼所は爆撃されないから」と言われた由、皆相当な重傷患者のみです。「へー自分は衛生兵を連れて、山へ逃げ込んで、患者は反対側の教会へ行け」とはねー、不思議な思いでした。暫く行くと目の前に大きな火が見えて来ました。病院前の草原へ衛生材料を山と積み上げて焼いて居るのです。岡薬剤中尉が其の前で軍刀を杖に突き、黙々と突っ立って居ります。其所へ私が走り寄りますと「おう平岡か、皆山へ行ったぞ、早く行けい」との事、其の姿の何と淋しそうな事、孤影消然と言う言葉其のものでした。堪え難い悲しみをこらえて居たのでしょう。ぐずぐすしては居られません。話もそこそこに切り上げて去りかけると、発着の兵隊が一人来て「班長装具は兵舎に置いてあります。急いで下さい」と言うと直ぐに消えて仕舞った。其れで慌てて、装具(背嚢其の他)を取りに行く可く病室を通りかかると、何とも言えない強い悪臭の中、ボーツとローソクの灯がともり、マグロを並べた様に寝て居る重傷患者から「衛生兵さんよ、ワシ等を放っといて山へ逃げても、何うせ行きつく所は一緒やで」と言われた。地獄の亡者の声を聞く思いで、ゾーツとしました。見れば動けない患者の枕許には、乾パン一袋と水筒一ケが置かれて居た。その哀れさ、悲惨さには言葉もなく涙が流れた。然し黙っては通れません。例へ気なだめでも「まあ頑張れよ、必ず迎えに来るからな」と一言残して大急ぎで立ち去りました。此の時はまさか私が此の人達を本当に担ぎに来る運命とは知りませんでした。

 其の後兵隊と共にトラックに飛び乗り、暫く走って山裾へ着き、暗闇乍ら見当を付けてジャングル内の木橋の下ヘモミを隠しました。暫く歩いて、発着部を探し出して合流、住民から徴発した豚で、豚飯を炊いて居たので御馳走になりました。食事中皆と相談して、隠したモミの中で約二十俵程を担いで帰りました。

 次の日本部へ追い着きモミ収集の報告を隊長に行う。例の猫撫で声で「御苦労」早速本部の兵隊が取りに行きました。量は減って居ても、誰かが持って行ったのだろう位だったのでしょう。

 此の日発着の兵隊が「此の近くの林の中に、航空師団が米をドラム缶に入れて山と積んであるぞ、一寸ばかり頂こうではないか」と言うのです。全員食糧集めに必死の時です。「良かろう」と早速五、六人連れ立って、敵機を気にしつつ天幕を持って出掛けました。「バレンシア空港には満州から来たとか言う航空師団が居り、物資豊富で有名だったのです。軍隊といっても一般社
会と同じく金持ちも、貧乏人も隣り合わせに居るのが常の話です。彼等はマナゴック附近を中継点として、真直ぐ山へ逃げつつあり、我々はマナゴックから左へ切れたのです。行って見ると成程ドラム缶の山です。所が何と其の山の上には歩哨が立って居るのです。立ち上がって歩哨と顔を見合わせて居ると、彼は何と無くニヤッとした様に思うと、向こう側を向いて知らん顔。何う言う事なのかサッパリ判りません。(エエイ、見て見ぬふりをして、やろう)だろうと松岡伍長と相談、そろそろ近づくが此方を見ない。ドラム缶の口が下の方にあるのを探して、天幕を拡げ口を開けると「ザーツ」と出て来る。

 私はずっと歩哨を見ていたが振り向かない。直ぐ一杯になったので大急ぎで担いで其所をはなれた。一寸はなれて歩哨を見ると、彼も此方を見てニヤリとする。私達は一斉に頭を下げました。矢張り「大家の若旦那様は鷹揚に出来とるなあ」が其の時の皆の感想。一兵士でも「哀れな兵隊に恵んでやろう」と言う仏心があったのでしょう。終始無言の一幕でした。

 二十年五月七日頃マナゴック患者収容所が開設され、和田少尉が長で島田少尉他一、二名の軍医と例の如く、「下士官平岡と各部○名宛」の編成が出来、マナゴック三叉路の近くの大きな木造建築物を収容所に致しました。看板を上げると教会へ行かされた患者達が直ぐ入って来始めました。治療と給食と輸送をやるのですから大変です。其れで私は発着へ渡したモミを取戻して、衛生兵には白米飯を、患者にはお粥を与えました。

 所でリナボ病院迄は七、八キロもあり、重傷患者を運ぶ方法がありません。其れで前の道路を敵機行動時間内だったのに、盛んに往来して居る航空師団のトラックに目を付け、疾走するトラックの前に大手を拡げて立ちはだかりました。「患者を運び度い、戦友を哀れと思って力を貸してくれ、一回だけ頼む」と哀訴懇願しました。幾ら熱意を籠めて頼んでも、無言でジリジリと押して来る事が多くあきらめて道を開ける事が続きました。それでも十回に一回位は応じてくれる車に出会い「1回だけだぞ」と念を押されて承知してくれました。嬉しかった。「乗務員が仏に見えた」と言っても決して過言ではありません。担架で運べば一患者に四人の兵士が要ります。炎天下大変な事です。然も患者は重傷者で、数日絶食しているのです。死者は既に発生している筈です。一刻を争う状態です。此うして五、六台で引き取りは終わりました。此う言う下世話な事は雲上人のお医者様では何の役にも立ちません。又残置患者は衰弱甚だしい重傷者です。

 トラックの運転手から、早く、早く、とせかされて扱うと何うしても手荒くなります。悲鳴も.聞こえます。誠に哀れな次第。でも空襲恐怖下の作業です。航空師団の人達も必死で山へ入る準備中を特別、別格の温情で他所の師団の応援をしてくれているのです。通例絶対と言っても良い程出来ない他部隊の援助をしてくれているのです。急がねばなりません。所で衛生兵の方も血と膿と大小便で汚れた患者を抱きかかえるのです。大変な苦労でした。其の間既に死亡して居た患者はジャングルへ運び仮埋葬をしました。此の時本隊の人達は山奥の上のマクラミンで、のんびり暮らして居り、一部分遺隊が此の有様です。又運んでくれた車の人達は後で車の掃除にさぞ困られたと思います。改めて厚く厚く御礼申し上げ度いと存じます。

 其の後私達は可成り離れた住民の小部落を探し回り、沼の中で鼻先きだけ水面上に出して、潜んで居る水牛を探し歩き、徴発に大車輪でした。二十数頭集めました。(水牛は長時間水中で暮すので、水に浮かばない体になって居り、然も泳ぐ事が出来ません。だから深い所へ行くと溺死致します。陸上の普通の牛は良く浮び且泳ぐ事が上手です。)又住民に会えば、塩・キニーネを渡し食糧も可成り集めました。でも此の頃は牛馬豚鶏を、ドンドン徴発して居りましたので住民の反感は極めて強く、然も可成りの武器が行き渡って居りましたので大変危険性の濃い行動でした。又此の時白馬で片耳中耳炎の馬を入手しました。耳から膿が出て臭いのですが、大変元気でしたので、藤ヅルで編んだクラを見つけて私の乗馬としました。衛生兵から「連隊長殿」とからかわれつつも得意でした。

 私は病人の世話等は他の下士官に任せて専ら患者輸送を担当しました。こうして集めた水牛に患者を乗せて上マクラミンヘ送りました。途中小山の頂上が草原になって居る所があり、敵機に狙われ、水牛が暴走して患者が振り落とされて死亡したり、又牛と共に谷に落ちた患者を担ぎ上げて水牛に乗せ直したり等、患者輸送は困難を極めました。其れで私は白馬に乗って隊列の前後を走り回り、空を見、患者の容態に目を配り、叱咤激励して運び上げました。担架に乗せてククリ付けたり、時には背中合わせに二人を牛の両方へ振り分けに乗せ腹の所を帯で結んだり、前後に二人をまたがらせル、等それぞれ考えてやりましたが、平常の病院ならば絶対安静の患者達です。其れを何時間も牛の背にククリ付けて運ぶのです。其の苦痛を見るに忍びず、「此所で死なせた方が余程幸せなんだがなあ」と何度も感じました。でも其の言葉は口に出せません。飽く迄も強い言葉で激励です。余りきつい言葉を受けた患者の中には、私を冷たい心の持主と受け取った人も居るかも知れません。でも迫り来る敵の至る迄に矢張り山上へ運び上げねばなりません。当時私達は、カガヤン―ダバオ道は既に米軍が支配して居るものと信じて居り、何時リナボ道ヘナダレ込んで来るか判らない緊張感、恐仰心に支配されて居りました。然も折角苦労して運び上げても、既に息絶えて蒼白い顔色をした者や、到着後間もなく亡くなる人達も居りました。力んだ力がスーツと消える想いでした。肉のスープ、濃いお粥と言った当時最高の料理を供し、精一杯力付けた末の話ですから報いられないなあ、と思いました。

 作戦要務令(陸軍の戦斗行動を規定した法令)では指揮官退却に意を決するや、戦場に到着する空車輌其の他を利用して患者の後送に務むべし。と定められて居ります。所が事実は患者を放置して転進と言う名の退却を師団長も病院も平然とやったのです。十日程で患者収容は終りました。本隊が病院見度いなものを開いて受入れたのです。

 私は約半月食事は量・質共に充分取りました。血気盛りの年令でもあり、見違える様に体力も充実し気力も亦盛んなものがありました。振り返って考えて見る度に、私の生涯で最も充実した活動の出来たピークの一つだったと思います。

 全能力を振りしぽって、如何なる困難もものともせず立ち向い、恐れを感じない毎日が続いたのです。或る意味で大変爽やかな、楽しいとさえ言える思い出です。

 二十年五月二十日 マナゴック
 此の日夕刻、岩本、杉本を誘い三人で病院を出て峠へ上り「下マクラミン、マナゴックヘ降り後進患者の有無を確かめ度い」と峠の陣地に拠る東ケ崎大隊の人に話したが、「逃亡兵と違うか」とばかりウサン臭そうな顔をして許可されない。丁度其所へ大隊長が来て、「おう平岡か、何をしとる」との事、早速目的、行動予定を述べると毎日患者輸送で苦労して居たのを知って居られたので快諾され、「明朝ガスのある間に帰れ、気を付けて行け」と言われました。山道はダイナマイトで大木を倒し、障害物をこしらえてありました。廃屋とバナナの木が点在するなつかしいバリオに到着すると、丁度大きな月が上がり、シーンと静まり返って夢の世界か、絵でも見る様な美しい感じでした。既に米軍の尖兵を務める原住民ゲリラが居るものと見て周辺で暫く様子を見、順次廃屋へ前進しました。物陰を選んで一人宛走り、襲撃された時に備えつつ、歩きまわりました。人の気配はありません。遂には大胆になって月光に身をさらして堂々と歩きまわりましたが何事も起きません。終り頃青いバナナを取り、ゆでて餅を作り、蚊やり火をたいてしばらく雑談しました。勿論只三名ですから外は油断なく見張っては居りましたが「師団の将兵多しといえども最殿りを務めたのは我等三名ぞ」と妙な気エンを上げてグッスリ眠りました。翌朝目を覚ませば案の如く、一寸先も見えない朝霧。今朝は大声を上げて戦友を探したが誰も居ない。直ぐ峠へ向い無事帰りました。一K先の三叉路には敵は来て居たと思います。大隊長へは「下マクラミン、バリオヘはまだ敵は来て居りません」と報告「おう御苦労」とねぎらわれました。若さの特権とはいえ良くまあ敵前でグッスリ眠る様な大胆な事が出来たもの、と思い出してはなつかしくなります。然し生涯彼のシーンと静まった明月の下、廃屋とバナナの木の織りなす美しい夜は忘れられません。美しい思い出です。

 此の岩本重治伍長とは、空腹のオモナイを共に過ごし、亦山へ入る過程で深く信頼し合う様になりました。彼は「カラバオ」即ち水牛の現地語通り、ガッシリした体と、粘り強い性格、朗らかで、口数少なく、私のおしゃべりとは極めて対象的乍ら、強い友情が生まれました。

 其れで戦後帰郷して間も無く、冬の寒い日彼の生家へ状況を知らせに行きました。家は城崎郡内川村で丸山川左岸で玄武洞を見渡す小高い所の農家でした。両親と奥様と弟様とが居られました。其れで炉端で一通り戦地の状況を話し、夕食を頂き乍ら話は進みました。話は只一つ「生還の望みありや否や」の一点に絞られます。「生死何れか」を真剣其物何度も何度も詰め寄られました。先ず望みは無かろうが、資質極めて優れた彼の事故、奇跡は望み得るし、また望み度い私の心情、こうなりますと、家族も私も共に迷いに迷って仕舞いました。炉端での話は夜半に至りましたが、結局「判りません」で終わりました。其うして案内された部屋で、コタツの入った布団に休みましたが仲々眠れず転々として居りました。するとスーツと間仕切りが開き、人が入って来ました。見れば奥様です。小さな声で「もうお寝みになられましたか」との事「イイエまだ眠って居りません」起き直って布団の上でオーバーを羽織りました。余り明るく無い電球の下で昼間押し黙って家族と私との話をまばたき一つせず聞き入って居た人が座ってしばらく黙って居りました。そうして涙声で「主人は生きて居るのでしょうか、死んだのでしょうか」と問う。私には昼間の話の繰り返し以外出来ません。「非常に困難な状況でしたが、死んだとは申せません」「其れでは生きとるでしょうか」「そうあって欲しいのですが生きて居るとは申せません」「貴方のお話は良く判りますが、ズバリ貴方の見込みを聞きたいのです」双方真剣勝負になって来ますと、力も入り声も大きくなります。「何か事情があるな」と察せられました。「若し生きて居るなら、十年でも二十年でも待つ」そうしてワーツと泣き崩れました。私も共に泣きました。近い部屋の御両親も共に泣かれた事でしょう。奥様は夫への想を綿々と低く、時に高く訴えられました。既に天国に在った重治君にとって此の時の奥様の涙、思慕の言葉は、何物にも勝る回向であり、冥暗を照らす灯りであり、妙なる音楽であった事でしょう。小一時間もして落着かれ、涙を拭き、ていねいに礼を述べて出て行かれました。私は夜明けまで想いは尽きず眠れませんでした。

 二十年五月二十三日
 本日はマクラミン患者収容隊編成。

 本隊は東方へ出発。既に収容中の患者と、東ヶ崎大隊の患者収容が目的です。編成は長大島少尉下士官平岡、兵十数名。数日後師団衛生隊の軍医中尉、軍曹、兵一名計三名が、東ケ崎大隊へ辿り着き、大隊長命令で我が収容隊へ配属された。然し大変な居候が来たものです。本家の此方が長少尉、下士官伍長で、居侯の方が階級が上なのです。我々が体を張って集めた食糧を腹一杯食べて終日寝転んだ儘何一つ手伝いません。腹の立つ事しきり。目の下に見える旧日本軍空港より飛び立った敵機は存分に爆撃、銃撃し、帰れば観測機が上空を舞って、追撃砲を指揮、物凄い砲撃です。大隊は屈曲した山の頂上にタコ壷を掘って入って居ります。山の稜線は巾が甚だ狭く、丁度ビョーブを立てた様な形なので、直線に飛ぶ飛行機の爆弾は仲々当たりません。又迫撃砲弾も弾道が少しでも高いと背後へ落ち、低いと前の山腹へ当り、丁度ピッタリとは参りません。然し連日(八時より十七時迄ですが)「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」と言う訳で、休み無しに良くもまあ、とあきれる程撃って、撃って、撃ちまくって参ります。まあ言えば現場へ運ばれた砲弾を如何に大量に消費するかが目的の様に思われる射撃振りです。昔旅順要塞重砲兵連隊で、ノモンハン戦の生き残りから、ソ連軍が撃って、撃って、撃ちまくって来た話を聞きましたが、近代戦の凄さに、ホトホト感心させられました。此うなれば矢張りマグレ当たりでも、友軍の損害は続出です。私も何度かぬかるみの急坂を上り、降りして患者収容に出ました。暗夜木に吊るした白布を頼りにしていった事もあります。あぐらをかいた東ケ崎少佐が手の使える者は総べて「治療してやって呉れ」と言い余程の重傷者のみ「下がれ」と言います。背負われる事自体が激しい痛みを伴います。負う者、負われる者共に地獄です。背中で亡くなった事もあります。人間生きて居る時は何と無く軽く、死んだ途端に、「グッ」と重く成る様に感じました。「アッ死んだな」と感ずるものです。又此の大隊は直ぐ山に人り、食糧集めが充分できなかったらしく、食糧難は非度く、要請を受けて私達は十俵か二十俵程のモミを渡し感謝されました。又水牛を倒すと、頭と皮をズツと取りに来て居りました。病室へも砲爆弾命中、数名の患者がギセイになりました。一瞬に無数の肉片となって飛び散り、木の枝、幹にへばりつきました。

 私は旅順要塞重砲兵連隊で砲兵から衛生兵に転科した者ですが、砲兵は弾が無くなれば砲を壊して退却します。三〇師団砲兵も同じです。所が日本軍は誤った白兵至上主義を日露戦争後も守り続け三八式小銃一丁を持って、白兵戦の時居る迄じっとタコ壷の中で待機するのです。軍の主兵は歩兵から砲兵に代わって居たのです。戦車も移動砲兵の一つなのです。所が日本の高級職業軍人は張鼓峯、ノモンハン迄其の事を知らず、手痛く教えられても改めません。東ヶ崎大隊に対空機関砲と追撃砲があれば互角の戦いが出来るのです。後方の木陰から爆音と士煙を眺めつつ、「此れは戦争では無く一方的虐殺だな」と思いました。同じ死でも対等の斗いの結果の死でなければ浮かばれません。日本の参謀本部陸軍省にいた高級職業軍人達は将兵には飯が、銃砲には弾丸が、エンジンには油が必要であり、それ無くしては戦争が出来ない事を知らず、「三八式小銃に着剣して夜襲すれば総べて勝利」と信じて居たのです。其れで切込み隊なるものを作ったのです。食も兵器も、弾丸もまともに与えない一線将兵に過剰に与えられた唯一のものは、「必勝の信念」を盛った勇ましい言葉の弾丸だったのです。私は後方から毎日山上の第一線を眺めて、発狂する者が居ないかと心配する程物凄い中で何日も堪えて居ました。余りにも気の毒で哀れで何とも言い様の無い日が続きました。患者収容に行き話を聞くと、我々が登って来た田の畦道の様な所へ米軍が大道路を作って居る由です。急斜面の山腹へ大変な速さで道が出来つつあるとの事ビツクリしました。

 良く聞くと戦車の前に鉄板を着けて道作りをして居るとの事、後日降伏してサグントで、見て始めて納得しましたがブルドーザーの事だったのです。戦場へブルドーザーを運び込んだのです。又サグントで見て驚きましたが、ブルドーザーで木を倒し片付け、地均しをし、後へ鉄板を空輸して敷き並べ数日で大空港を作った由、先輩(八月十五日以前の捕虜)から聞きました。(先輩達は負傷して置き去りになった人)お相手をして居る日本軍は総べてツルハシとスコップとモッコ担ぎです。然も空腹を抱えて。

 
 
     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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