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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

7.アグサン収容所 
              
 十九年十一月 アグサン収容所
 カガヤン到着後病院開設、其の後、後続北上部隊の患者治療の為アグサン患者収容所発足、長和田雅之少尉、下士官平岡、兵十数名の編成で数十戸のアグサン部落の空き家に陣取りました。又大きな米国系デルモンテ缶詰会社のパイン缶詰工場と大桟橋の残骸があり米軍は毎日の様に日本軍が利用しない様に爆撃をして居りました。

 其の傍にヤシ丸太で組んだ日本軍の機帆船用桟橘があり、揚陸勤務大隊(長少佐軍医二名)が居りました。此の人達は貨物取り扱いですから、食糧難等何所吹く風、隣の私達は重湯と雑炊の御兄弟と仲良くして「腹減ったなあ」が御挨拶の毎日です。入院患者にも少ない薬と薄いお粥や雑炊を食べさせましたが、本当に気の毒でした。病も傷も体力次第、其れが空腹を抱えて寝て居るのです。其れで私は入院患者中死亡した人の僅かな携帯口糧を使ったり、其の衣服を持ち出して原住民と、バナナ・甘藷と交換して持ちこたえました。死亡者は毎日何名か出ますから可成り交換用品が出るのです。

 殊に将校が死ぬと将校行李の中の衣服は多いので、相当量目に見える形で増給出来て喜ばれました。でも悲しい事ですよね、死者が無ければ生きた人間が飢えるなんて事はね。

 私は毎朝の回診で当日の死亡予定数の見当を付けて、暑くならない内に、又空襲の無い間に穴掘りをしました。場所は北西側を流れる川の右岸近くの川原の様な所を選定し、列を作り遺体の胸の上にヤシの若木を探して来て植えました。ヤシの木は原住民は大切にするので一〇〇年以上墓が荒される心配はありません。人間最後に昇天した後、みにくい姿を天日に曝される事は大きな不幸と考えました。此の考え方は平家物語や中国の古典に出て来ます。東洋人の持つ考え方なのでしょう。又後日遺族が遺骨を迎えに来ても、上流から下流へ一列に並んだヤシの木と、入院患者名簿の死亡順位を見れば正確に本人の遺骨が判る様にと考えたのです。

 空襲が激しくなり、昼間は歩ける者だけ近くのジャングルで暮す様になりました。従って軍医の回診は早くなりましたが此の診断がチョクチョク狂うのです。其れで私は良く「軍医さんよ、貴方は自称する程の名医じゃ無いぜ」と笑いますが、其れは妙な事に気付いたからです。其れは軍医が本日臨終と診断しても、目尻・口・鼻等の粘膜に一ミリにも満たない赤蟻が食い付かない限り死なないし、大丈夫と診ても赤蟻が付けば必ず其の日に死亡するのです。其れで和田少尉に「貴方はヤブじゃ、天下に聞こえた岡山医大助教授もミンダナオの蟻様の診断に劣るのじゃから」とからかいますと「此れには参ったなあ」と苦笑して居りました。此の和田少尉は隊長からにらまれる資格は十分で、お口が誠に悪く、お行儀も甚だ悪い、小便は専ら部屋の窓からやり飛ばす。「医者ちゅう者は生涯勉強をせんならん、患者が死んだら医者が悪い、治ったら寿命があった」と言われるので、私は「其れは駄目だ、先生は治ったら俺の腕だと言い、死んだら寿命でしたな」と言ったら良いのに、と言って笑いました。「絶対に間違いはない医者なんて居らんのよ」「ワシは名医と思う奴程大ヤブなんだよ」「仕舞った、と思う事の無い様生きている隈り努めねばならん、因果な商売じゃ」等々表現は別として、誠に立派な医者で患者に対しても言葉はぞんざいですが、愛情がにじむ治療振りでした。或る時此の人の真価が発揮されました。と申すのは、隣の揚陸勤務大隊の軍医が二人連れ立ってやって来て「今日の空襲で隊長が下腹部に銃弾創を受けた、創は幸いに軽く治療は済んだが小便が出ない。腹がポンポンに張って甚だ危険であり、又苦痛の為ドナリ散らされて困って居る。何とか助けてくれ」との事、尿道カテーテルを使っても尿道を荒す丈で、上手に膀胱へ挿人できないらしい。すると和田少尉は例に依って面白おかしくからかうのです。でもお二人は辛抱して「お願い致します」と頭を下げて帰りました。すると和田少尉は「お前等に腹一ぱい御馳走を喰わせてやる。二、三人随いて来い」「軍医さんよ大言は後にしてくれ、ついて行った我々まで赤恥かいて逃げ帰らんならんのと違いまっか」と申しますと「やかましい黙ってついて来い」誠にサッソーとして居る。余りの白信に私達がついて行きました。行って見ると、隊長はウンウン言い乍ら「良う来てくれた、此なヤブ共二人にえらい目に会うとる、早い事頼む」との事です。和田少尉は準備をして、やおら腹を撫で回し、左手で男性器を軽くつまみ上げて、右手で金属カテーテルを取り上げ尿道に一寸差し込み、一息してスッと差し込むや小便が噴水の様に飛び出す。誠にお見事でした。「アー良かった、助かった、有難う、有難う、貴方見度いな名医に出会うて誠に仕合せじゃ」と大喜びです。「おい先生に御馳走をせい、お土産も考えろ、米・缶詰等充分に差上げい」和田少尉の株は大暴騰で天井知らず、お陰で私達も鼻が高く大盤振舞にあづかりました。お米も何俵かもらって来て、患者にも米の飯を食べさせ、和田少尉奮戦記が暫く物語られました。

 此の後私がオモナイ収容所勤務中、和田少尉がキバウエで収容隊長として勤務中なるを知り、二十年二月十一日兵隊一人を連れて大胆にも、ゲリラ横行の中キバウエに和田少尉を尋ね一泊して帰りました。訪れると「久方振りじゃ」と大変喜んでくれまして白い米の飯を炊いてくれました。お話しに依れば、五、六Kはなれた山地モロ族を訪ねて、病人の治療診断をして食糧の補充をして居る由。首長の家には祖先が打ち取った残骸を飾り、戦斗用の長い蛮刀を抜いて自慢話を、身振り手振りでやられるのには閉口するとの事でしたが、和田少尉ならではの行動です。オモナイでは到底出来ない事とあきらめて帰りました。
 青々と皿に盛られし春菊や 二月十二日 キバウエ
と下手な俳句が残って居ります。

 戦後聞けば生還出来なかった由、誠に立派な人を失ったものです。御冥福をお祈りするのみ。ついでと言えば失礼ですが、軍医の中には人格的に随分いかがわしい人も居ましたが、私の見た所では谷本中尉、斉藤中尉、桜井中尉、田隅少尉、田村見習士官、或いは萩野衛生少尉の様に立派な手腕を持った人格者も居りました。誠に惜しい人の多くを失ったものです。

 尚隊長に憎まれた私は、此の収容隊編成で出された「下士官平岡各部○名宛の兵」なる命令は今後ずっと繰り返されて終戦まで続きます。辛い事、苦しい事、イヤな事が総べて押し付けられ、本隊では三日と暮らせなくなりました。

 患者食のピンハネをしたり、異常に恐怖心が肥大したり、人格上問題のある人からきらわれたのですから名誉な事と思う様に努めました。然し終戦後姫路の兄の家を訪れる途中、道路左側で「○○医院」の看板を見た時は異常な衝動に駆られました。辛じて「待て待て家族には責任は無い」と思い止まりました。戦後、時に此の種の人を見ますが、此れは一首の先生病患者だと笑う様になりました。

 十九年十二月十二日 俳句記録
 私はスリガオの神風問題以来憲兵隊を意識して、記録を書かなかったのですが、良く考えた末に下手でも俳句を作り、何日何所でも書く事を思い付きました。こうすれば俳句が主体で、日時場所は従たるものであり、部隊の行動記録とは違う、と言い逃れの材料になると考えたのです。早遠此の日行軍中の部隊を見て、
 水牛の歩みもどかし兵の暮。 十二月十二日から二十年四月二十一日 リナボ

 緑濃き高倉山の麓原。まで一五三句を書きました。約五ヶ月の記録が出来ました。山へ逃げ込んでからは堂々と日時場所を手帳に書きました。それでも十月四日投降した時は二日の誤差が出来て居りましたが、本文の基礎が出来た次第です。

 十九年十二月下旬
 私の下手な俳句の日記より判断する時、此の頃アグサン患者収容所が閉鎖され、カガヤンからマルコに移動した本隊へ、収容中の患者を送って行ったり、アグサンヘ帰ったりの日常だったと思います。

 十二月十四日 デルモンテ
   〃 十五日 マルコ
   〃 十九日 マルコ
   〃 ニ十三日 アグサンーマルコ
   〃 ニ十四日〜三十日 アグサン
   〃 三十一日 マルコの俳句があります。

 尚レイテ行きは十一月二十四・五日で終り(舟が無くなり)、十二月二十四日は最終的にミンダナオに留まる事になったのです。

 二十年一月一目 マルコ
 本隊発着部で正月を迎えた。現地住民の立退いた家で、青い未熟バナナを蒸して餅を作り白い御飯を食べた事が鮮やかな記憶として残って居ります。此所は深い緑の中に点在する家の屋根はトタン屋根を赤く塗り本当にきれいな所でした。

 朝晩は極く小型の鶏が鳩の様に空高く飛び廻り珍しい風景だった。朝霧が濃く可成り高地だったのでアグサンとは異なり、大変涼しく過ごし良い土地だった。

     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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