これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。
平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
6.ミンダナオ縦断行軍
十九年十月 デイゴス行軍
カガヤン到着後暫時休息して準備しました。其の間水牛を徴発して来て干し肉を作って居りました。
牛を倒すのに小銃弾は惜しいので牛の眉間に十字鍬を打ち込んで倒し、さばき、蒸し千し携帯食として居りました。誰が食べたのか私達のロヘは一切れも入りませんでした。此うして愈々南岸デイゴスヘ向けてミンダナオ縦断の旅に出ました。テクテクと重い背嚢を背負って炎熱の中の行軍です。世界で珍しい歩く兵隊です。アグサン東方から山へ登り始めました。つづら折りの可成りの上り坂です。高原上に出てデルモンテ近郊で完熟したパインを食べた時は本当に美味しく其の芳香も素晴らしい、缶詰より知らなかった我々にパインの真価が教えられました。
又マルコの街は小さいけれども大変美しく静かな緑の中に点在する民家落ちついたきれいな町でした。
所が其の南を流れるタゴロアン川は台地を深く深く削った底を流れる為、下って又登る長い坂道は辛い思い出の一つです。ミンダナオ長官が居るマライバライは地図上に二重丸がついて都会と思って居たのに貧寒とした一村落だったのには落胆させられました。然し其の西方に広がる大草原は誠に大きく「広いなあ」と皆感心しました。
小さな淡路島に生まれた私には完全に別世界の一つでした。此の頃からモロタイ島(昭十九、九、十五日米軍占領)から飛来する双胴戦斗爆撃機に痛められる事が多くなりました。トラックの被害が特に目立ちました。其れで常に上空を気にしながらの行軍です。又空腹とは何うしても離縁出来ず、空腹と仲良く手をつないでの行軍ですから、常に水牛や食べ物に注意しつつ歩き水牛は見付ければ直ちに屠殺し食料としました。「腹が減っては戦が出来ん」と言う事を知らん偉い人にゃかなわんなあと軍上層部の悪口が何度出ても腹は一パイになりません。兎に角食糧は少なく現地にもススキ原ばかりです。此の頃水牛の予牛が見付かり肉が軟らかいから隊長用にするとの事で、此れを追って歩く役目が発着に命ぜられました。発着では松岡伍長が牛の取扱いが上手との事で二、三の兵士と共に追って居りました。でも仲々歩きません。川沼の傍では水に漬けねばなりませんし、水に入れば何時までも上ろうとはしません。ホトホト泣かされて居りお気の毒でした。
又オモナイ北方プランギ左岸の長い下り道で、恐らく十月二十七日頃だろうと考えますが、レイテヘ行く北上中の歩兵部隊とすれ違いました。此の中に佐野の平岡昭典君の姉ムコが居りました。「やあ」「やあ」「頑張れよ」と言葉を交わしました。彼はスリガオで胸部疾患で入院して居りましたので良く知って居ります。今見る彼は流石歩兵の分隊長精偉な気醜を面に見せて歩み去りました。でも後姿を見るに、其の気醜と大きな背嚢を支える体の何と細い事、気力だけで歩いて居るのです。生還しなかった旨戦後聞きましたが矢張り私の一門の縁に連なる人の事忘れる事は出来ません。合掌
更に南下してブランギ川の本流近くを歩くと、周辺が低湿地である為、トラック通過の為マニラ麻の梱包を一面敷きつめて道路を固めて居りました。我々漁民にはヨダレの出る風景です。其れで私達は早速此の麻を抜き取り、ゾーリを作りました。靴を大事にする事と、足のマメを楽にする為に一挙両得と流行しました。
此の当時野砲兵の南下に出会いました。既に馬は倒れ、水牛は弱り、人力でバンエイして居りました。一番感動したのは、年老いた連隊長大塚昇大佐が、軍刀を背に負い杖を抜き、バンエイ索の先頭を引き、部隊を叱喀激励して居る姿でした。平常であれば馬上豊かに悠然と歩くのです。私達は背嚢が重いのです。所が砲兵部隊(私も現役当時重砲兵だった)は馬一〇頭で曳くのが常である十糎榴弾砲を空腹の兵士が引いて居るのです。私達は其の傍を只ちぢこまって、うつむいて、そっと通り過ぎました。心中密かに手を合せて。極めて貧弱な武装の日本軍では飛び切り上等な火砲であり、イザとなれば此の人達の奮戦に我々の運命がかかって居るとも言える大事な部隊です。
又此の南下、反転北上の時、師団の参謀少佐が、ダバオの在留邦人の娘とか言う美人を傍らに侍らせて、乗用車で悠々と通行して居るのを見ました。(後日山中で私は彼の真価を問う会見をしました)
前記大塚大佐と参謀少佐を比べた時、一線戦斗部隊と管理部門とが如何に駆け離れた存在だったかが判るでしょう。軍司令部、陸軍省、参謀本部等は天国に住み、兵士は飢えて死ぬ。此れは戦後多くの書物で明らかにされて居ります。
此うしてプランギ川の渡河点に達しました。河にはワイヤロープが張り渡されて居り、箱船がワイヤに連結された滑車を使って水流を利用して往復し、渡し舟の役を果たして居りました。渡河後大きなゴム林へ入り空き家で宿りました。
カバカンの部落外れです。此所でヤシの殻に入れて固めた砂糖を入手、久し振りに甘い味にあり付き大変喜びました。此のゴム林で数日暮らす間は空襲続き、執ように爆弾と機銃弾に追い廻されました。
大型爆弾が近くに落ちて伏した体が持上がり土砂を被った経験もし、追い回す敵機の機銃弾を大きなゴムの木を盾にして逃れたりしましたが、空襲は度重なる程恐ろしくなるもので段々爆音が神経にさわる様になりました。
此所カバカンで南下中止、反転北上となりました。恐らく十一月始め頃と思います。此の北上道中で休憩中本部から伝令が来て「隊長のタコ壷要員を出せ」との事です。タコ壷要員とは隊長が空襲を恐れて、自身が休憩中十分間入って休む為タコ壷を掘る使役兵の事です。休憩場所へ着くと直ぐ次の場所へ先行した使役兵が適当な所ヘタコ壷を掘り待って居り隊長到着、休憩、又使役兵先行となります。此の時先任下士も松岡伍長も居会わせず、私が受命しました。
平常から隊長一人入る為のタコ壷掘りには反感を持って居たので「レイテヘ向う兵隊を何故コキ使うのか、隊長も兵隊と一緒に休めば良い。発着には其な事に使われる兵隊は一人も居らん」と大声で断りました。帰る伝令と先任下士が立会い、承諾したらしく「平岡よ辛抱せい、お前の気持ちは良く判るが誰かを出そう。情無いけれども辛抱じゃ」と誰かが指名され出て行きました。隊長はピンロー樹の葉のウチワを軍扇代りに持ち歩き休憩となり、タコ壷に人ると首を出してグルッと見廻し、近くに兵隊が休んでると蝿を追うようにウチワで示して「もっと離れろ」即ち敵機の目に入っては不可ん。遠すぎるとウチワで招き「馬鹿者何所へ行くんじゃ」即ちゲリラが恐い。あきれた話です。四十才代で男盛りの先生と言われるお人の姿です。
所で私は足の小指が四指の下に食い込む様な形の足です。其の為行軍すれば小指は第四指に圧迫されて直ぐ豆を作り、休んでつぶし赤チンを塗り、又豆を作り赤チンと此れが連続となります。そうすれば遂には足指の骨が見えるまでになります。北上中も此うなって痛さに堪え切れず落伍を求めました。隊長から「大きな体をしとり乍ら、足の小指一本で落伍か、仕様無いわ後から来い、当番を付けてはならん」と罵られ、惰無いが此な足を持った因果と思いつつ「申し訳ありません、後から頑張って行きます」と返事して近くのザボン畠の中で昼寝を決め込みました。目覚めればザボンを取って来て喰べ、タバコを吸い「只一人」と言う曾つて無い孤独の楽みを充分味いました。然し日暮れと共に流石に心細くなって来ました。ゲリラの真只中誰一人通る者とて無く、小銃一丁抱いて座って居ると矢張り淋しいものです。夜に入れば必ず自動車が通る筈だから便乗してやろう、と横着を決め込んで居るものの仲々やって来ない。其の間に「此りゃ待てよ、只一人道路へ出て大手を拡げてもゲリラの作戦と見られて蜂の巣にされるんじゃ無かろうか」と別の心配が生じました。「まあ何とかなるさ、待てば海路の日和あり」と待って居るとヘッドライトが見え近付いたトラックに手を上げて頼むと、マライバライ行きのトラックで案外親切に荷台へ上げてくれ早朝にはマライバライヘ着きました。数日後隊長に再会しましたが、タップリと.「イヤ味」を言われましたが歩くよりも良かったと、直ぐに忘れて発着の人達との談笑の中にとけ込みました。
尚前記ザボンの事ですが、此の地の柑橘全部か何うか判りませんが、ツボミ・花・幼果・成熟果と一本の木でミカンの一代が全部見えるのです。次から次へと花が咲き大きくなって順番に喰べられるのです。誠に便利な物と感心しました。其れからカガヤン迄「暑いなあ」「腹減ったなあ」「足痛いわ」と言いつつ歩きました。
次へ続く
2003年5月再版発行
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
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