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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

5.米軍大空襲               

 昭和十九年九月九日 大空襲
 八月に入ると三〇師団は米軍のミンダナオ南部への上陸に備えて、東海岸から中南部へ展開し始めました。ダバオの一〇〇師団と並んで作戦する事になったのです。其の為師団主力は八月末より九月始めにかけて、東海岸より西海岸カガヤンへの中継点スリガオに集まりました。日本の天橋立そっくりの州上に兵員・貨物・兵器の山が出来、海上には数千屯級の船二隻、機帆船数十隻も浮かび大変な賑わいでした。

 九月九日も病院は平静で朝食を済ませ雑談をして居りました。所が突然飛行機の爆音が轟きました。それで下士官室の窓辺に走り寄った一人が「おう友軍機が船団護衛にやって来たぞ」と大はしゃぎです。私達も空を見上げて「豪勢なもんだなー」と感心して居りました。所が其の声の終わる間も無く、ドーン、バーン、ゴーと周辺は爆弾の雨です。主に港の周辺がやられております。続いてバリ、バリと機関銃弾が私達の廻りにも降り注いで参りました。でも其所は鍛えられた成果か、恐いもの知らずか帝国陸軍の兵士達は小銃を持って外へ飛び出し、顔が見える低空まで降りて来て機銃で猛射する敵機にパンパンと盛んに撃ちました。私も夢中で撃ちました。此の時は少しも恐いとは思いませんでした。暫くすると第一派は引き揚げ海上と砂州上は盛んな黒煙が立ち昇って居りました。急いで海岸へ駆け付けて沖を見ると被弾した船が燃えつつ沈没して行く時でした。じっと黙ってたちすくんで見て居りました。すると轟々と爆音を響かせて第二波の空襲が始まりました。急いで木陰に身を隠しました。其の時眼前の海上でジグザグ航法で敵機をさけて居た数千屯級の船が被弾し少し傾きかけました。上甲板を見ると、捜索三〇連隊の軽戦車の砲塔が旋回しつつあり、低空で機銃攻撃して来る敵機と砲戦を交え始めました。正に沈没せんとする船上の戦車に入って斗う兵士が居るのです。

 短時間の砲戦を続けた後船と戦車と共に勇壮な兵士は海底に沈んで行きました。深い感銘を受けた私達は思わず合掌して冥福を祈りました。

 又此の時一隻の機帆船が眼前を航行して居りました。すると前方上空から敵機が機銃を乱射しつつ襲いかかりました。此の時船のブリッジから一人の人間が船首の方へ走り出しました。そうして船首に備えられた小型火砲らしきもの(はっきりと判りませんでした)に取り付き敵機に応戦を始めました。此の瞬間大轟音と共に敵機と船が一体になって大爆発、大きな水柱となり、木らしい物を吹き上げました。「戦斗とは斯くも凄まじいものか」活字と写真と映画でより知らなかった戦争の中に我が身を置いた実感にふるえました。そうして三波に及ぶ空襲が終わった頃から負傷兵が続々と病院へ押しかけて参りました。スリガオ港の砂州上も大混乱だったらしく爆弾と火に攻められた兵士達は裸になって内湾を泳いで対岸に渡り、或いは海岸の浅瀬を伝って砂州の根元へ辿り着いたらしいのですが死傷者続出だったらしい。

 所が受ける病院は十九名の医者より居りません。大手術を行える医者は半数も居りません。其所へ数百名の負傷者が殺到して来たのです。先づ患者受付係りの私達発着部は大混乱です。取り敢えず到着順に前の公園に並べました。

 そうして手術の進行に併せて何か所かの手術室へ患者を送り込むのです。成る可く重傷の患者を先に選ぶのですが、さりとて生存見込みの薄い者に手間を掛けて早く処置すれば助かる者を後回しにして死なせてはならない。実に難しく又イヤな事です。軽傷者(片腕が飛んだ程度)を運べば「馬鹿者此那のはお前らでやれ」重傷者を運べば「馬鹿ったれ、此な者が助かるか部隊へ返せ」と怒鳴られる。家族が此の有様を見たら何と言うでしょう。兎に角お手揚げです。其れで成る可く公園の中で一時的でも処置できる患者は仮手当てをして部隊へ返し、駄目と見た者は「病院で死ねば戦傷死になるぞ、部隊へ連れ帰り戦死にしてやれ」等随分勝手な話をして成る可く手術室へ運ばない様に努めました。でも附添兵は承知せず派手な大喧嘩を何度もやりました。更に困ったのは運んで来た儘受付を済まさない内に附添兵が居らなくなり、廻って行った時は死亡している人達でした。何所の誰とも判らない裸の死者なのです。もう一方の手術室も亦大変です。何時間も立った儘で飲食抜き、切ったり縫うたりでぶっ倒れそうになって居ります。本当にお手上げ状態でした。又ワンワン騒ぐ患者に限って軽傷なのです。(手首がち切れた位は極く軽傷です)多くの患者は苦痛に顔をゆがめ乍らも何時間でも黙って土の上で横たわって居ました。私は負傷程度は見ても、患者の目を見る事は努めてさけました。大変辛い仕事ですから。中に余り騒ぐ患者が居て、余りの事に腹を立て頭をけり飛ばして黙らせた事もありました。今思えば誠に恥ずかしい事をしましたが、文字通り殺気立った修羅場の中での出来事でした。許して欲しいと思います。夜に入って応急処置も済み一寸一段落したので手術室の模様を見に行って居た時、急に爆音が聞え「空襲」の声で急ぎ窓から外へ飛び出しました。すると足にさわった物が、グニャ、コツン、ズルズル等誠に妙な感じです。「オヤッ」と良く見れば手足等手術の廃棄物の山なのです。ゾッとして逃げ出しました。

 又此の日一寸顔見知りの沖縄糸満出身の上原と言う移民の漁師がカツオ釣りに出て居て、機銃弾を受け可成りの重傷で、奥様と二人の十才過ぎの子供に依って病院へ運び込まれて来て居りました。然し兵隊の剣幕に押されて、公園の片隅でヒッソリと待って居りました。私が応急処置と患者の見回りをしつつ近付くと二人の子供が私を見て言葉こそ少ないが必死に頼むのです。私は一応「民間人は後」と振り切り歩き出しましたが真剣な二人の子供ににらみ付けられポロッと落した涙に負けました。それで奥様に「海軍軍属上原と言うんだぞ」と申しました。其の時の家族の嬉しそうな顔、直ぐに手術室に送り、後日マブハイでも見掛けましたが子供が何度も何度も頭を下げて居りました。でもカガヤン行きの船には居りませんでしたから、恐らくマブハイでの強制退院組に入ったのでしょう。果たして日本に生きて帰ったか何うか。又此の夜は戦死者を焼く大きな炎が何ヶ所も立ち昇って居りました。何とも不気味で異様な感じでした。尚此の日の敵襲は我が軍が集中した所を攻撃したのですから被害は甚大で、三〇師団は兵員・武器弾薬・被服・糧秣・燃料等大打撃を受け大きく戦力を失いました。

 十九年九月十三日 マブハイ病院開設
 敵スリガオに上陸の恐れあり、との事で、急に五、六K離れた山中のマブハイ鉱山跡に移動した。一般戦斗部隊もカガヤン方面へ移動したらしく、近藤大隊(後の高木大隊)のみがスリガオ地区に残った様であります。

 十九年九月下旬 マブハイ病院閉鎖
 病院は閉鎖し、カガヤンヘ行く事になり、斉藤中尉を長とした二十五名がスリガオに残る。此の時歩行可能な患者は総べて退院、カガヤンヘ陸行を命じぜらる。無茶苦茶です。歩けさえすれば炎熱の中、重傷者に何百キロも歩けと言うのです。貧しい小国の兵士の運命です。所が患者を退院させる事で一番困った事は食器被服の件です。九日入院組は背嚢を持たず、フンドシ一つの者も可成り居るのです。其の人達に下着・服・靴・飯盒・武器を与えず裸で敵中を何百キロも歩かせる事は出来ません。其れで入院中死亡した人が残した物を先づ分配、次に尚入院して居る人達の分も無断借用して与えました。でも足りません。下着を着た人には上着を与えなかったり、上着だけを与えたり、実に気の毒な姿でした。九月九日以前の入院患者は皆一通り持って居ります。其れを取り上げるのですから、自衛上彼等も頑張に低抗致します。大変なさわぎです。でも何とか二重飯盒を二人に分けたり、小銃を持った者から、ゴボー剣を他人に貸してやったりして緒局四、五名のグループを作り、小銑とゴボー剣が一丁以上ある様にして送り出しました。此れ等は私達発着の仕事なのです。送り出す迄は気が張って居りましたが、此の人達が杖を頼りにトボ、トボと歩き去る姿を見た時は誠に哀れであり思わず涙が出ました。此の人達はカガヤンヘの途中で皆行き倒れ、ゲリラにやられカガヤンヘは一人も到着しなかったそうです。

 此の日午後担送患者、衛材其の他をトラックで埠頭へ運びました。桟橘には空襲時接岸して居て周辺の大火災の煙に覆われ敵の目を逃れたとか言う、淡路島福良の機帆船が一隻居りました。船底に衛材の箱を並べて患者を寝かせ、衛生兵は甲板上に寝た様に思います。此の日は夕暮れ豪雨に見舞われ全身ズブぬれでした。

 私は最後に念の為真っ暗闇の埠頭上を歩いて「誰か残っとらんか」と呼びつつ廻って居ると一人の患者が担架に乗せられ、水溜まりの中で「此処にも居ります」と言う。「アホ奴サッサと言わんかもう一寸で置いてけぼりを喰う所だったぞ」と言いつつ船へ放り込んだ事を覚えて居ります。「此処にも居ます」と言う言葉が如何にも変だったからです。

 又此の日は第一回トラックで埠頭へ着き、何気無くフッと下の海面を見ると、二、三の遺体があり、水に漂い誠に鬼気迫る感じでした。故郷日本へ帰る海を漂う兵士の遺骸、胸打つものでした。
 
  所で乗った船たるや、単筒(シリンダー1ヶ)の二、三十馬力の焼玉エンジンで、おんほろ機帆船の標本見度いな船です。船首に起って下を見ても波が立たない様な速力です。夜だけ走って、昼は海岸へ寄せてヤシの葉を切って甲板に並べて碇泊します。動ける兵士は陸上のジャングル中で一日を過ごし夜を待って出発します。此の繰り返しで何日か後にカガヤンヘ到着しました。
 
 此の時斉藤隊は近藤大隊付き患者収容隊としてスリガオに残りました。此の人達は平常隊長ににらまれて居る人達が多い様に感じられ私が此の組に入れられないのが大変不思議でした。殊に本部の大谷辰一軍曹が此の組へ人って居たのは驚きでした。此の人は温厚な良く出来た人で後に無事生還後も戦友会の事務を一人で取りしきってくれて居ります。でも理由は何であれ死神から追っぱらわれた事は良かった。さて此の人達は師団の本流から遠く離れて島流し同然となる為「もはや生還は望めない」と言う訳で別れは悲壮なものでした。然し戦場に於ける人間の運命程判らないものは無く、捨てられたと思った此の人達が二十名八十%も生還できたのに、本隊は私達発着部を除けば五名約二%の生還より出来なかったのです。

     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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