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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

4.口は禍の元               

 昭和十九年八月二十四日 サイパン玉砕
 此の日午後「下士官以上集合」の命令があり、海岸沿いの二階建て民家に設けられた本部へ集まりました。私は丁度日直下士官でしたので、病室に残り不参加でした。暫くして帰って来る人達は、皆一様に黙りこくって、ウツムキ加減、何となく異様な感じです。「おかしいな」と直感しました。聞いてみると、隊長より、「サイパン玉砕、皆も腹を決めよ」と訓示された由です。

 空腹乍ら平和な桃源郷とも言う良きスリガオで、のんびり暮らして居たのです。大きな衝撃だったらしい。中でも、姫路出身のT伍長は、顔面蒼白、其の儘下士官室へ入って毛布を被って寝て仕舞いました。

 其れから数日間、一言も言わず、同僚が勤務先へ出た後も、枕元に置かれた食事をしては寝た儘でした。日頃彼は朝晩2回、妻の写真を取り出し、「もう起きたか」「お天気は良いか」「御飯を食べたか」「美味しかったか」「もう寝る時間だね」等々手にした写真相手に対話するので名物だった男です。其の彼が数日後突然、下士官室の前にある私達発着部事務室へやって来ました。

 「おや、起きたらしいな」と思いました。其の彼が私に向かって、「平岡よサイパン玉砕の意味が判ったぞ」続いて曰く「日本人が此の頃神をおろそかにするので、いましめの為に至る所で、日本軍に苦戦させて居られるのじゃ、即ち神罰である。しかし勝ちにおごった米軍が愈々、日本本土へ攻め寄せた時は、神はお力をお示しになられ、神風をもって、米国艦隊を全滅させ、日本の勝利が訪れるのだ。安心せい、心配するな」とのご託宣。あっ気にとられ、次いで馬鹿臭くなり、且つは日頃の奥様とのご対談で軽蔑していた男の事故、つい私もいらざる一言が口を突いて出ました。「ホーそれは良かったなあ。目出度いこっちゃ、所でTよ、参考までに聞きたいが、三万五千屯の戦艦を引繰り返す神風とは、一体風速何米かいな」と申しました。(波高は風速の三分の一)途端に彼は憤然として「そんな事を言う奴が居るからサイパンでも負けたのじゃ」と吐き捨てる様に言ってプイと出て行きました。

 暫くすると病院本部から使いが来て「平岡伍長、隊長殿がお呼びです」との事。「何だろうな、俺見たいな者に、隊長何の用があるんだろう」位で出かけました。

 「平岡伍長お呼びに依って只今参りました」すると例の猫撫声で「平岡伍長、君は先程T伍長と神風論争をやったかね」と言う。聞いた途端にサッと黒い危険が迫った事を直感しました。一大事じゃ、何としてでも切り抜けねばならん。「ハイT伍長と話しました。T伍長はサイパン陥落を聞くや、毛布を引っ被って寝た儘今日まで起きて来ませんでした。そうして起きて来るや「神風を頼れ」と言うのです。神様は此な人間を果たして救い賜うや?神は自ら努める人間をこそお助け下さると思い彼の安易な考えを諌めた心算でした」所が隊長は「イヤ良い、帰りたまへ」の一言。「此れは甚だ危険だなあ」と思いつつ帰途につきました。

 発着事務室についた途端、田隅少尉に隊長より「お呼び」

 待つ間もなく田隅少尉が帰り、「平岡よ、隊長は幾ら頼んでも反戦分子として明日憲兵隊へ渡す」の一点張りだそうです。災いは口より出ずと古人は申しましたが正に其の通りになりました。常日頃親しい人達に「死ぬなよ、死んではならんぞ」「皆頑張って生きて帰ろうぜ、生きて帰る事こそ祖国への忠節であり、民族への愛情の現れだ」或いは「アメリカの生産力は一週間十万台であり、日本は一年間一万六千台より出来ないそうだ」或いは「アメリカの生産力は日本の数十倍だそうな」等(戦後知る所では約四十五倍)言わずもがなの事をチョイチョイ話したのが隊長の耳に入って居たらしい。何よりも「死ぬなよ、死んではならんぞ」と言っていたのが一番悪かった様だ。

 所が此の日午後海軍の主計中尉(名前は忘れたが奈良県宇陀郡の人だった)が訪れました。発着部は受付け役です。聞けば乗り組んで居た巡洋艦名取が潜水艦に撃沈され、将兵がカッターに乗り、スリガオ海峡の島に辿り着き、海浜で壕を掘りゲリラと対戦中だが傷病兵も多いので明日患者収容隊を出してくれとの事でした。

 そうして事務室に貼られた「宿敵米鬼のノド笛を噛み切らん」等のアジビラを見て「陸軍さんはまだ此な事を言うとるのか、此な事じゃ万一の時日本人として恥ずかしい振舞いをする恐れがあるなあ」と言います。敗戦と言ったも同じ事です。発着の人達は息を呑みました。続いてサンゴ海海戦等の苦戦、彼我戦力の大差、特に電探の立ちおくれを話されました。其の後主計中尉は「隊長に挨拶したい」と本部へ出掛けました。

 其の晩下士官室ではTを責める者、私を激励慰問する者、冷然と蔑視する者等様々でした。発着部の兵が来て私の背嚢の整理を黙ってしてくれました。其の中で私は黙然と腕を組んで考えました。ゲリラの中へ逃げるか、腹を決めて憲兵隊へ行くか、自殺するか、逃げれば故郷の家族は悲境にたたされるだろう。憲兵隊で虐殺されても病死の公報が家族に届くだろう。考え抜いた末、家族の為憲兵隊での死を覚悟しました。

 そうして居りました所へ、田隅少尉から事務室へ呼ばれ「憲兵隊へ渡されたら、今日の状況では直ちに死が訪れるだろう。死中に活を求める為に、私はお前を明日の海軍患者収容隊へ出し度い。隊長には危険を過大に伝えて、死んでも惜しく無い男だからと話し、若し生きて帰れば賞として隊に置く様にしてくれ、と取引しようと思うがお前の考えは」との事です。「誠に有難い事です。お願い致します」と答える。

 可成り時間が経って田隅少尉がニコニコして帰り「話は出来た、明朝海軍から迎えが来る。編成は各部二名宛だ。発着からは心利いた者を出す。頑張れ、でも慎重にな」と激励されました。お礼の言葉も口籠る程嬉しかった。開けて次の朝早く医療嚢と雑嚢を十文字に背負って待って居たが一向に迎えの車が来ない。

 待ちくたびれて居た所に海軍が患者を連れて来た。聞けば連絡の手違いで海軍は病院から行くものと待って居たが来ない。収容時間が暁方なのでおくれては大変と、夜半に出航したそうです。収容状況を聞くに、駆潜艇を浜に乗り上げ船首の機関砲でジャングルに猛撃を加え、弾幕の下で収容した為に被害は無かったとの事でした。

 其の後田隅少尉が病院長と交渉して「充分言動を慎む可し」で落着しました。この結末が得られたのは田隅少尉の努力のお陰であり、且つ主計中尉が隊長と話した内容から病院長も心境に幾らか変化を来して居たのかも知れません。後日田隅少尉は患者輸送でセブ島へ行く途中米潜水艦に撃沈されて不帰の客となりました。今日でも思い出しては感謝して居ります。合掌。

 参考までに此の当時の彼我戦力を見ると、日本海軍はミッドウエーで空母四隻、重巡一を失いサンゴ海で戦艦数隻を失い、最大戦力の空母は僅か四隻となり、航空機に至っては全陸海軍併せて、約二五〇〇機、実働僅か一五〇〇機に過ぎません。

 ところが二ヵ月後レイテに来た敵は、空母十六隻を含む戦斗艦艇一五七隻、輸送船四二〇隻、特務艦艇一五七隻、計七三四隻、上陸軍は六ケ師団二〇万二五〇〇人でした。

 レイテ日本軍は一ヶ師団と併せて二万人に足りない程度、其の後の増援二ヶ師も潜水艦、航空機の攻撃を受けて沈没して裸の師団となり、他に一ヶ師団と三〇師団の一部と言う僅かな兵力でした。然も其の装備たるや博物館入りが相応しいクズ鉄同然の兵器で、兵士の勇気だけが頼みというお粗末さでした。日本陸軍の高級職業軍人は大言壮語するのみで、兵士には食糧と世界並みの武器と弾薬が必要である事を忘れたか知らなかったのです。

 此の様な中で私の合理主義的な片言隻句が大問題として取り上げられたのです。

 人間が月へ行く様になっても、バカに付ける薬は出来ておりません。
 
     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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