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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

3.スリガオ病院               

 昭和十九年五月二十五日 スリガオ港着
 私達二半部は本日スリガオへ到着致しました。

 スリガオは、スリガオ海峡を前にして北のレイテ島に、対面して居る要地です。

 又此所は日本の天橋立と瓜二つの地形で、海中へ突出して居る岬へ上陸です。

 上陸後直ちに、キリスト教会跡で病院を開設しました。海も近く、2階建ての、白いシックイ塗りの家で、信者宿泊所?だったらしい大きな建物です。前にある小公園には、カンナの花が咲き乱れ、花咲く樹木もあり、ヤシの木も点在し、誠に美しい所でした。

 病院開設と同時に、周辺あるいは東海岸を南下した部隊から、戦傷兵の入院が始まりました。敵は現地住民ゲリラで、米軍より兵器を支給され、仲々手強いとの事でした。又道の曲り角で待ち伏せ攻撃をなし、或いは見通しが良いところで攻撃され、道路の反対側低地に入って応戦せんとすると、必ず鋭利な竹槍を草の間に低く立ててあり、銃弾と共に竹槍と言う原始兵器に傷付く兵士も、可成り出るとの事でした。其の中で尖兵分隊長が二人続いて銃弾創で入院して来て話題になりました。

 尚私は発着部の下士官中で最下位であったので、好まれない火葬係に任ぜられました。開設後暫くして最初の死亡患者が出ました。
 
 午後おそらく発着の兵隊三名と共に、遺体の傍へ廃屋の材木をトラックに積み、原住民墓地のある丘の上へ行きました。

 充分材木を並べた上に棺を乗せトタン板を置き、濡れむしろを掛けて火をつけます。(九月の大空襲迄は立派な棺を造り、しっかりした骨箱へ遺骨を納めて事務所でお祀りして居りました。)

 枕許には心ばかりの花を立て、米を木の葉に乗せ、飯盒に水を入れ、蚊取線香に火を点け、合掌礼拝して点火です。所が此の時は初めての経験とて、トラックからガソリンを取り出し、薪の山に流した所、一瞬に爆発、私は眉毛を焼かれてビックリしました。蒸発したガソリンに、蚊取線香の火が引火したのです。やっと落ち着くと、死んだ兵隊の背嚢整理をした時、出て来た携帯口糧の米を飯盒に入れて、ダビの火で炊飯し、出来ると仏前にも供え缶詰めを開けて「焼き賃を頂きます」と夕食を致しました。

 夕焼空を眺めつつ、墓地の中、ダビの火を前にする夕食は実に感慨深いもので「此れも戦場」と心の中まで風が吹き抜ける思いでした。

 日は西に没し暗闇の中、思い出した様に無理な駄洒落を飛ばし、或いは無駄話をしても、スグに声は小さくなりました。恐らく傍の三人の胸の内には、「明日は我が身」「此の人にも愛する家族があるだろうに」等去来して居たのでしょう。

 真っ暗になった墓地の片隅で、燃え落ちた炭火の山の傍で只黙って四人は座って居ました。其所へ突然自動車の音がし、ヘッドライトに照らし出されました。止まったトラックから本部下士官が出てきて、「此所はゲリラの巣なんだそうな、急いで、急いで」との事で、我に返り、熱い炭火をかき分けて、遺骨を集め、トラックに飛び乗り、兵舎に帰りました。

 此の後はもっと兵舎に近い野原で焼きました。

 此の火を初めに、終戦まで何百人か数え切れないダビに立会い、遂には何の感傷も湧かない様な冷たい心になって行きました。

 九月九日の大空襲後数日間は、煙りを出せない為、死者の指を落としブリキに乗せ、炭火で遺骨採取をしましたが、魚を焼くのとは違って、誠に辛い仕事でした。


 十九年六月五日 一半部到着
 私達は上陸後、食料不足との事で、毎日お粥、野草入り雑炊が三度の食事です。お陰で空腹と極く仲の良い、無二のお友達になりました。「腹へったなあ」が毎度の御挨拶です。

 そうした折り一半部到着に付き、スリガオ駐留部隊より、揚陸勤務及び患者収容隊の編成命令が司令部から出ました。私達は先日上陸の際の混乱振りは充分承知です。時こそ至れり、ドサクサ紛れに、食糧調達をする事に決めました。昼の間に食糧置き場を点検、広い荷揚場で道を間違わない様に充分準備しました。何分にも兵器、弾薬、燃料、被服、食糧等の山なのですから。早速夜に入ると、担架を持って、荷揚場入口検問所は、「患者収容です」「御苦労」と通り、担架に米、缶詰を積んで毛布を掛け、両側から「頑張れ」「しっかりせい」と患者ならぬお米様を激励しつつ、検問所は難なく通過、戦果は大いに上がり、後暫くは発着全員、空腹と別居出来ました。

○ 此の頃病院長と、先任衛生中尉(衛生将校とは、兵、下士官、将校と、志願して昇進する事務将校です)の二人が、毎日、本部隊長室で、患者用加給食品たる羊羹とか、餅米と砂糖で作った、ハクセンコーと言われる干菓子を食って患者には提供せず、空腹とは無縁だと言う事が判り、兵士の間から、隊長への信頼は一気に吹き飛びました。食べ物の恨みは根深いものです。後日サグントで他部隊の兵士から、隊長が只一人小さな甘藷ヅルを手に、茫然と佇んで居た事を聞き私達一同溜飲の下る思いでした。

○ 此の当時私達は小さな数十戸の部落ながら、一応住民と、少数の華僑の生活があり、食料品店らしきものもあったので、軍票で、芋菓子、バナナのテンプラ等を、少し宛買って、栄養補給をして居りました。
  又将校は原住民の娘を集めた慰安所へ良く出入りして居りましたが、大部分の下士官兵は色気より食い気で、食うことに専念して居りました。

○ 時々早朝に原住民が高いヤシの木へ登り、花芽の根本を切り落とし、したたり落ちる果汁を竹筒で受けているのを、腰に着けた大きな竹筒へ集めて居るのを見ました。見て居ると腰の刀で少し切り直して果汁が良く出る様にして、又受け直して居りました。此の汁は半日程置けば、甘酒程度のアルコールが出来数日で強い酒になります。酒好きな兵士は此のヤシの酒を良く買い求めて居りました。私も早朝冷たい取り立ての、甘酒の素みたいなのを少し買って飲みましたが、素晴らしい味でした。でも後で長く酔うのには困りました。腹の中で発酵するのです。

○ ある日他部隊が砂洲の先端近くで、魚取りをする話しを聞き、発着の連中二、三人を連れて見に行きました。

 現場ではマブハイ鉱山より運んだ、ドラム缶入り青酸加里を海中へ流し込んで居ります。潮の流れに従って、見る見る間にサンゴ礁の中から三十糎以上もある魚が飛び出し、海底を白く埋めて行くのです。

 歓声を上げつつ、暫時待って、青酸加里液の流れ去る頃を見はからって、海へ潜り拾い上げます。魚はヒメチで、内地では高級魚です。先ず拾い上げた魚を三枚に卸し水洗いをし、刺身にして居ります。先任下士らしいのが、初年兵らしいのに、刺身一切れの試食を命じて居り、初年兵が何とも言い様の無い顔をし乍ら食べます。一寸間を置いて、二、三名試食後、後はワッとばかりに頬張って居ります。食べるコツは何うやら、内臓を捨て、水洗いを十二分にする事らしい。私達も残った魚を拾い上げて帰り、早速刺身、其の他にして満腹した事がありました。

○ 時々海岸の入江へ遊びに行きました。部隊本部の近くです。群れを成して泳ぎ廻る、イワシ、小鯖、其の他を見て、何故軍隊は投網を持って来なかったのかと、生つばを飲み込む思いでした。入院患者でも、網さえあれば、魚を食わせて、直ぐ元気になれるのになあ、と残念でした。本当に無尽蔵と言える程居るのですから。

○ 此の頃病院に破傷風血清が無くなりました。

  盲腸炎や切断手術等、何度手術しても、手術室に破傷風菌が繁殖しているのか、全部破傷風にやられるのです。

  然も血清は無い、助ける術は無いのです。手を拱いて、のた打ち廻る患者を見殺しです。其れで何度も石炭酸、其の他の薬剤で、手術室を全部完全と思われる迄、徹底して消毒しても駄目でした。事情を良く知って居る病院の兵隊は手術を要する病気を極度に恐れました。


 十九年六月七日 輸送船沈没
 六月五日入港した一半部乗船の輸送船は、ボロ船の見本みたいな船で、甲板には大穴が開き縄を張り廻して「危険」と書いた札をブラ下げた船でした。荷揚げ後出港しましたが、我が病院から、セブ島陸軍病院への患者転送が行われました。所が此の船は沖合いで待って居た敵潜水艦に撃沈されました。乗船した移送患者の中の精神病患者が一人暴れ廻って手間取りつつも、護送衛生兵が縛り上げ、救命胴衣を着けて海へ放り込み、患者全員がスリガオより出港した海軍に助けられました。精神病患者を沈みつつある船から救った事で、衛生兵の面目が立ち、とても嬉しかった想い出があります。
     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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