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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

十四、フィリッピン紀行               

                                                    昭和五十八年八月

  四野病発着部生存者への報告書         平岡 久

 昭和五十八年八月二日十時
 ミンダナオ島ブキノドン州リナボ東方、マナゴック南方、三叉路近くの道傍。四十年忘れ得なかったミンダナオ中央山系、数千人の若人がしかばねをさらした飢餓地獄、その入りロマクミラン峠を前にして築かれた粗末な慰霊祭壇にぬかずき、肩を震わせ、男泣きに泣いて手を合わせた。

 眼に浮かぶは水牛の背にくくりつけられ、苦痛に顔ゆがめ悲鳴をあげる患者達、せっかく彼の山上に運びあげても、既に息絶えた兵士の蒼い顔。糞尿と腐った血肉の臭いの固まりを抱きかかえて、水牛に乗せる苦労。夜半、薄暗くゆれるローソクの光で照らされ、寝たまま、か細く、よわよわしい声で遺言をする患者達、「もう云い残す事は無いな。さらば良い所へ行けよ」と、注射器を取り直す衛生兵長、中の島にるいるいと並んだ白骨の山、「そこ通る兵隊さんよ、水呑みたい、水汲んでくれ」と哀訴し、末期の水を求めた戦士達…。

 読経してくれる田村様はじめ、同行してくれた人達の読経の声を夢の中のように聞きつつ、ただ涙を流すのみ。何を、どのように拝んだか、合掌して頭を垂れただけに終わり、同行者の話声で現世に戻った。我に返って涙を拭き、静かにもう一度見直せば、かっては高い森や沼や、田、畑、バナナの木等が散らばり、その間に住氏の小屋が点在した平和な農村地帯が、何と一望の大水田にかわり、住民の部落は東北の山麓に固まってしまい、ずっと山裾まで続く水田なのです。又、天日を見る事の出来なかった真黒の大密林は消えて、山の稜線上に点点と残る疎林の列。伐り出された木材は全部日本へ運ばれた由。更に、全体の感じは蘇ったが、正確な道筋はどうしてもわかりません。多分、彼の山の尾根筋を上がったのだろう位でした。四十年の歳月を感じさせる風景です。

 更には、その水田で水牛と共に働く農民達が、目前の我々に誰一人も振り向かず、完全に無視する冷たい態度。通行中のジープニーから降りた人達が我々を取り巻き、お供物のタバコ、菓子、酒、衣類を喜んで受け取っているのに、あくまでも素知らぬ態度を取り続けます。これを見た時には、本当に腹の中を吹き抜ける寒風を感じました。

 山へ入る時に徴発したと云われる若人達の運命、家を焼き、家畜、食糧を奪った事等を思い起こして、戦場となった土地の人達の苦痛と恨みと、更には、その戦火の先兵となった私達の罪深さ、正に慙愧に堪えぬとはこのことでした。
生還して四十年、何時か墓参を、今年こそは、と思いつつも心重く、腰上がらず、やっと決心した昨年も、日本旅行社がお世話している百師団京都の杉本様をリーダーとする墓参団に申し込みながら、家事の都合で中止しました。それが本年漸く、杉本様以下十九名の墓参団に参加出来まして、七月二十九日大阪空港より、ダバオ、インシュラー「人魚」ホテルに到着できたのです。

 七月三十日 ダバオ周辺巡拝
 ロペス・ダバオ市長宅を早朝訪問、表敬。門前には自動小銃を肩にしたガiドマンニ名と、二丁拳銃のガードマン数名がたむろしており、我々には異様な光景です。昨日は、ダバオ南方で警察軍屯所がゲリラに襲撃され、二名戦死、二名重傷と新聞にも出ておりました。それで市長から「自分のガードマンを付けようか?」と云われたが、丁重にお断りしておりました。良く聞けば、反日感情も強いが、昨今のゲリラは警察軍と対立激化で、日本人は忘れられ、かえって日本人のみの方が安全とのことでした。

 すぐ、カリナンバン、トレ、オピアン、タモガン等を巡り慰霊する。その時目撃したのは、山地畑作少数民族の貧しさでした。二坪か三坪の草葺小屋で、五人も八人も子供をつれ、親はボロをまとい、子供、特に幼児は素裸で裸足、心痛む姿でした。この姿を見た私が同行者に「この貧しい人達の水牛や食糧を奪ったのかと思うと、心が痛む」と話すと、皆、異口同音に「もう云うな、皆思いは同じや」との言葉が返って参りました。

 又、到る所に、形ばかりの豚小屋同然の教会堂があり、住民は大変熱心なカトリック信者とのことでした。そのため、神の思召しに背く産児制限はしないのだそうで大変な子沢山。今まで墓参りに来ていた人達はこの実情を良く知っており、ダンボール箱に詰めてきた沢山のタオル、手拭、Tシャツ、アッパッパ等の衣類を、慰霊祭のときに集まる人達に配っておりました。私はかねてより、この様な行為は富める者の偽善行為であり、貧者の人格を傷つける行為と考えておりました。でも現地へ行って始めて、カトリックの"貧しき者は富める者より受ける権利がある"との考えに接し、文化の違いと云うものをイヤと云うほど思い知らされました。今春のヨーロッパ旅行の途次、スペイン、イタリア等でも度々聞かされた言葉ですが……。また夕方ホテルヘさっそうと現れ「十七才、十七才」と日本語で売り込む娘達のアッケラカンとした明るい態度を見て、感心もし、且又、世界はひろく、日本人的尺度で物事は律し切れないと知らされました。また、カトリックが離婚を認めないため、かえって事実上の離婚が頗る多く、私生児や無籍の子供が大量生産されている事を聞き、産児制減と併せ考えた時、宗教の力を空恐ろしく感じさせられました。

 又、エダ、パゴボ、モロ等、数多の少数民族の苦しみ、原始的支配、搾取の激しさには思わず義憤を覚えたことも何度かありました。経済的には生存するのがやっとのこの人達が、これだけ子沢山では経済的離陸は極めて困難でしょう。しかしながら、降雨量多く、日射量、温度に恵まれたこの人達は「アフリカの乾燥地帯の人達に比べればまだ恵まれている」とも感じました。ここの人達は、僅かな甘藷畑さえあれば、動物的生存だけは保証されるのだから:…・。私が常に云う所の「人間はいかに努力しても、もがいても、生まれた土地によって、運命は決められたものだ。それが天命と云うものだ」との考えは、ある程度正しいのじゃないかと感じました。さりとは云え、この状態では、ゲリラは拡大再生産こそすれ、消える事は夢だろう。ことに、警察軍なるものの素質が甚だ問題で在ることを考えると、まず絶望的でしょう。点と線を占領していた中国の日本軍を思い起こしました。マルコス軍の占領下にあると思えば良い。人口八十万の都市ダバオの貧民街を表通りからチラチラ見て、その環境の程度の悪さには驚きました。でもタモガン付近での慰霊では、水田地帯で生産力の高さに支えられたせいか、焼畑農民や都市スラム街とは格段に上位に見えました。

 ミンタル日本人墓地へも参り、沢山の墓石に刻まれた若い女性の名前を見て、カラユキさん達の運命に撫然としました。カタルナンの平和記念塔(戦没者慰霊塔)では、杉本さんの今日までの苦労がよく納得できました。経済的に恵まれたお人とは申せ、今日まで何十回も墓参をし、碑を建てる仏心には頭が下がる思いでした。

 七月三十一日
 マグサイサイ公園に遊び、終日、市内、ホテルの浜辺等で休養しました。

 八月一日 午後二時 カガヤン空港着
 空港近くで慰霊祭を行い、日系人宅で休みました。

 その人の話では「カガヤン市長がゲリラ関係で投獄中だったが、本日釈放された。リナボでは数日前、警察軍二人が死んだ、ミンダナオ中央縦貫道はバレンシア付近止まり、とかで、ゲリラの勢力は大きい」とのことです。

 リナボ、マナゴック墓参はかなり困難と判断されましたが、マライバライまでは安全とのことなのでマライバライまで行って様子を見ることになり、豪雨の中三台のジープニーで出発しました。杉本様の御配慮で私は助手席に乗り、周辺をよく見せていただきました。想い出のアグサン患者収容所あとは人家が建ち並び、昔の面影は何処にもなく、私が葬って、その上に植えたヤシの列等はてんで見当もつきません。先を急ぐことでもあり、心中合掌、冥福を祈りました。アグサン南方三叉路より、山中へのツズラ折りの道を上がって行きましたが、昔を思い起こす風景に思わず瞼が熱くなりました。途中、マルコ南方大峡谷の橋手前で一休みしましたが、かってテクテク上リ降りした懐かしい山河に足を踏みしめて、感無量でした。途中の西側にあった大ジャングルは完全に姿を消し、肉牛の放牧地になったり、人家も点々と建ち、人口の大増加があった事を示しておりました。

 又、ジープニーが、たんたんとしたアスファルト道路(日本の高速道路並み)を、消音器を外して大変な音と速度で雨中をぶっ飛ばすものですから、時々肝をつぶす事がありました。その中で写真を撮りましたが、大部分は駄目でした。途中チョイチョイ小学校を見ましたが、沢山の小学生が通学しておりました。通学出来る家庭は三分の一位との事で、学校は総て三部授業との話です。夕刻マライバライに着き、ホテル、カサ・クリスタルに入りました。名前を聞いて実体を判断してはなりません。日本の木賃宿以下なのです。濡れタオルで身体を拭き寝ました。

 八月二日 八時半 マライバライ出発
 朝出発前に、マナゴックには人らない、と言われましたが、ホテル側からも危険性が高いといわれ、一寸もたつきました。

 私が「ガイドさえつけてもらえれば一人でも行く」と頑張りました所、杉本様、矢野様が「それほどの情熱を燃やすのなら一人ではやれない。大勢同行する方が安全だ、行こう。」と云ってくれ、感激しました。他の人達も喜んで同行してくれましたが、大変嬉しい事でした。リナボは九時過ぎに到着、徐行しつつ想い出を探しましたが、さっぱりわかりません。今浦島はウロウロと周辺を見回すばかりです。目標の教会も道路の反対側に新築されて、しかも一寸見た所、一般住宅風の建物なので見逃す恐れがあります。降りて写真を撮る。更に道路を南下しつつ、旧野戦病院は道の左側、七、八米小高い丘の上だった記憶を頼りに探す。昭和二十年五月、二階建小学校舎が上空から完全に遮蔽建築された。彼の雄大なジャングルはどこにも見当たらない。でもはるかに見渡した中にただ一か所、道路左側に小高い丘の畠が見つかりましたので見当がつき、降車、合掌礼拝して通りました。更に一本道を進み、マナゴックヘ左直角に折れる三叉路を目指しましたが、三叉路付近は人家が建ち並んで山が見えにくいので少し引き返し、路傍でお祈りをしました。何分ゲリラに気を配っての事とて、のどかな風景とは逆に、かなり緊張した時間でした。帰途、旧十二K?分哨のあった三叉路で車の修理中休みましたが、沢山の小店が建ち並んで今昔の感でした。バレンシアまで南下の話も出ておりましたが、危険性を考えて打ち切り、マライバライヘ帰りました。

 マライバライの高校前で駐車、百師団の人達が十七年占領当時、大隊本部が置かれた高校を訪問しておる間に、下校中の中、高校生(主として女子)が集まり、高校の先生も参加して、大変賑やかな親睦集会になりました。孫の様な可愛い娘達に取り巻かれ、トラックの中はすし詰めでワイワイガヤガヤ、荒城の月、愛馬行進曲、其他、忘れていた軍歌を盛んに歌ってくれたのにはビックリ致しました。この子供達が生まれていない時の歌なのです。誰かが歌い継いでいるのでしょう。一緒に写真を撮ったり、大変楽しい時聞でしたが、日本人には全然見られない明るさ、奔放さ、屈託の無さには改めて感心しました。このかわいい子供達が成長して、明日のフィリッピンを担う時には、きっと、もっともっと良い国になる事でしょう。

 帰途、マライバライ北郊で占領当時戦死した人達、又、マルコ大峡谷では、通行中の軍のトラックが旧橋と共に落下、死亡された人達にそれぞれ慰霊をしました。その後、遅れた昼飯はデルモンテゴルフクラブ食堂ですませました。デルモンテパイン畠は公称二十K四方といわれ、まさに天に連なる雄大な規模でした。海岸にあるデルモンテパインエ場も見学、従業員一万人と云われる規模はさすがに大きいものでした。カガヤンではホテル・ミンダナオに泊まり、その晩日系人宅で会食。今、ミンダナオには日系人が約五干人居るとか、しかも大変、圧迫、冷遇され、苦しい状態との事でした。ガイド達の態度を見ても、オドオドして卑屈であり、圧追された人達の悲しさを見せており、誠に気の毒なものがありました。同行した人達は実情を知っておったらしく、判明している日系人達に色んな品物を渡しておりました。

 八月三日 カガヤン滞在
 午前中カガヤンキリスト教基地で慰霊祭。道路反対側のカガヤン大学が元の大隊本部で、校庭に埋葬してあるとの事ですが、入れないので基地で慰霊したのです。午前中に続き市内見物、猛烈な悪臭とゴミ、フィリッピンらしさを満喫いたしました。何か記念にと考えましたが、貝細工以外何も無い。貝、貝、貝ですが、重いので多くは持てません。

 八月四日 七時半 カガヤン空港発
 十時半、マニラ着、ガーデンホテル泊まり。

 ホテル屋上から、眼下の最高級住宅街を見渡しました。頑丈なコンクリート塀と上に張られた鉄条網、入り口には自動小銃を持った三人のガードマン、中には広い庭と花咲く樹、たわわに実を付けたヤシの木、大きなプール、これらとは逆に、この日と次の日にチラッと見た大貧民街、殊にその猛烈な悪臭、考えさせられる風景です。でも路上で煙草の一本売り、花売りをして生活費を稼いでいる少年達の明るさ、活力に満ちた姿は心温まるものがあり、明日のフィリッピンに希望を持たせてくれました。

 八月五日 マニラ周辺巡拝
 ロスパニヨスの山下奉文(放置された侭)、本間雅晴(良く手入れされていた)両将軍の墓地、カリラヤの慰霊塔を順次参拝、途中警察軍のものものしい警戒ぶりを見ながら。パグサンハンで昼食をする。この間、水田地帯を多く通る。なんと旧式ながらも自動耕運機が数多く動き、水牛の姿が少なく、各家にテレビのアンテナが立てられていたのには驚きました。畑作地帯では見られない風景です。いかにまずい政治をしても、経済の自立的な発展法則には勝てない様です。かって経済の固定化のため懸命の努力をした徳川幕府も、前資本主義経済の発展はおさえきれず、遂に幕藩体制が倒れた様に、フィリッピンも変わっていくことでしょう。

 モンテンルパの戦犯墓地に参り、その立派さに驚く。捕虜虐待、民間人暴行の罪に問われたものだが「生きて虜囚の恥しめを受けず」の裏返しであったり、「敵に糧を求めよ」と食糧を与えなかった根本の上層部命令者はほとんど罪を免れ、戦後、大臣、宰相になった者すらいる。その命令意図に忠実に従った下層将兵が、若くして処刑されたのだから誠に気の毒の一語に尽きる。
 
 ノモンハン、ビルマ、ニューギニア戦線等でも、高級将軍は殆ど形式上の責任を問われただけで済み、連隊長以下の中級将校、下士官兵への苛酷な取り扱いはひどいものであった。私は常に云うのだが、戦争を企図し、計画し、命令した上層部は、勝敗のいかんを問わず常に安泰であり、犠牲は無力な国民、中下級将兵に集中するものだ。例えば、日露戦争、ノモンハン戦争で負傷し戦場に捨てられた将兵は捕虜にならざるを得なかったが、この人達の戦後はどんなものだったろう。彼らは、後方の安全地帯に居た高級将校や、元気に退却した人達と比べて、大いに勇戦奮闘した勇士なのです。それを異国に追放したのだから、その冷酷非情は凄まじいものです。

 又、ノモンハン事変の時、ソ違軍に比較して徒手空けんにも似た貧弱な武器で戦わしめた参謀本部、陸軍省から敗戦の責めを負わされ、強制的に自決させられた連隊長達の心境は、どれほど無念だったでしょう。或いはガダルカナル撤収将兵がその後、苛酷な戦線を選んで投入された事等。又、第二次大戦で捕虜になったソ連軍将兵が、勝利のあと帰国して、どんなに哀れな運命に遭ったことでしょう。モンテルパでは実に様々な感槻が湧き起こり撫然たる心境でした。ただ黙って立ち尽くしておりました。

 八月六日 夜半帰宅
 午後十時過ぎ、淡路大磯港着。長男が車で迎えに来ており、家では老妻と長男の嫁が笑顔で迎えてくれた。又、長男長女の子供達四人の寝顔を見た時は、本当に嬉しく、生きる喜びを体一杯に感じました。最悪の場合、ゲリラに襲われるのも覚悟の墓参だったのに無事帰ったのだから・…:。最後に良かった、本当に良かった、良い墓参だった。

 此の旅行で出来るならばカバンハンなる部落を訪れ、僅かでも公会堂か小学校へ寄附したい願いを持って居たが、ゲリラ戦の中、果せなかったのは、心残りだった。

     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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