これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。
平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
13.生還
二十年十二月二十二日 浦賀上陸
愈々日本の土を踏みしめました。自分の足で、アメリカ軍支給の上下続きの野戦服を着て、ズックの靴をはいて、米軍支絵の大きな袋を負って歩きました。大きな感動と喜びでした。でも考えた程心が浮き立たたなかった事を覚えて居ます。何か淋しさ、悲しさを伴った喜びでした。比島に残した白骨が袖を引いたのでしょうか。
此の日兵舎の近くで大きな乱斗がありました。伊豆七島帰りとかの兵隊が、私達を見て「捕虜が帰って来たぞ」と戦陣訓精神其の侭の大声でやったものですからおさまりません。彼らは満州から移動したらしく、大量の被服、毛布を山の如く背負って兵舎に入ったのです。弾一発も撃たず、砲煙弾雨を浴びず、飢えも知らないで、無賃海外旅行をして来た兵隊が、レイテ、ミンダナオ帰りを罵ったものですから、血の気の多い連中がイキリ立ったらしいのです。其の内に伊豆組も相手の真実の姿が判り、陳謝して事は漸く治まりました。此の時初めて気付いた事は、軍服を着せられた数百万人の若者の中には、沢山の戦争、近代戦を知らない人達が居る事でした。一瞬「危険だな」と直感しました。軍国主義教育を受け、大陸、南アジアで占領者として君臨した人達の思考方法に危倶を感じたのです。本当の近代戦を知る元兵士は僅かな数です。
二十年十二月二十九日 故郷へ
西風強く波高い冬の明石海峡を、スシ詰めの連絡船で渡り、夕方には懐かしい我が家へ帰りました。門長屋を通り、玄関に立てば長兄、三兄が、家族と共に同居して居り、病母、妻、長男、弟組と三家族三組同居です。ビックりしました。長兄、三兄が疎開して来て居たのです。父は一年前死亡して居り、妻が世話して居る仏壇に生還の報告をし、灯と線香を上げました。さしも勝気だった病母は老毫甚だしく喜び乍らも赤児に等しくなって居り、思わず涙しました。我が児を抱き、妻に給仕され、弟と歓談して始めて生還の喜びをかみしめた。
正月を迎えましたが、戦地で考えた正月とは凡そ縁遠いものでした。正月過ぎから準備をして二月には浜辺の小さな、小さな網小屋へ荒ムシロを敷いて、親子と弟の四人が移りました。戦後の苦労の始まりです。でも戦場の苦労を思えば何一つ苦痛とは感ぜず、常に新たな勇気を振るい起して対処して居りました。
戦後の年月
私は戦後、公私両面で実に多くを体験しました。然も其の中心は、フィリッピンを始め多くの戦場で散って行った沢山の青年達が、生きる事への強い執着を持って居た事を強烈に教えられましたので、出来る限り多くの人達に「平和」「反戦」を訴え、且行動しました。勿論古い封建性濃い農村で「反戦平和」を唱える事は文字通り棘の道でした。でも餓えて死んで行った青年達の菩提を弔う事と割切って行動し発言しました。
お蔭で私の家族は大変な被害者になりました。
然し私も昨今漸く心身の衰えを深く感じる様になりました。更に大正の時代は過ぎ去り、昭和の人達の時代が訪れたのだ、とも感じる様になりました。然も戦後は終り、「戦前が始まった」と実にイヤな、暗い、悲しい日の訪れが予感される今日此の頃です。其れで私は私なりに「言う可き事は言った。為す可き事は為した。後は神に召されてか、仏に導かれてか、やがて昇天する日まで『人間とは何か』を改めて見、且つ考えよう」と思う様になりました。
今年は昨年に引き続き中国を見た後、四十年間寝た間も忘れ得なかったミンダナオを訪れ、香を手向け、花を供えて自らの戦後に一区切りを付けたいと思って居ります。其れで此の機会に、愛する子と孫達の為に此の一文を贈ります。
昭和五十七年三月五日晩
次へ続く
2003年5月再版発行
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003
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