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 「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」

全文掲載

これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。

平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。

12.捕虜病院               

 二十年十月二十七日 パゴPW病院勤務
 PWとは戦争に依る囚人、客人の意味で、上下続きの野戦服の背中に大きくペンキで書き込まれて居ります。到着して軍医に申告しようと、顔を見て驚きました。なんと衛生隊の軍医中尉では無いか。マクラミン患者収容所の居候、夜逃げ軍医ではありませんか。どちらも余りの奇遇にビックりしました。「おう元気だったのか」「お達者で」此れで軍隊に於ける申告は終りです。話は種々と出ましたが、曾っての中尉の部下だった軍曹の惨めな最後は、どちらも意識的に話題にせず仕舞いでした。所が中尉さん大変なサービス「幕舎で休め、充分体力の付く迄勤務は良いぞ。欲しい物があれば言うて呉れ」との事。見れば結核病棟で、看護婦、衛生兵共に充分です。早速お言葉に甘えて幕舎へ案内して貰いました。幕舎へ着いて見れば、日本軍の携帯天幕などとは異なり、「厚手のシートで如何なる豪雨が来てもビクともしません。病室も此れと同様でしたが、兵舎は粗末だろうと思って居たのに堂々たるものです。兵舎の寝台上でゴロ寝をして居りますと、若水とか言う九州出身の看護婦さんが、タバコ、菓子、果物と毎日運んで呉れました。又不便だろうと言って、何所で入手したのか旧日本軍の飯盒と水筒をきれいに磨いて持って来て呉れました。今も我が家にあります。彼の看護婦さんもきっと幸せに過されて居る事でしょう。

 其でキニーネを体力に合わせて注射し、日本ヘマラリアをお土産に持って帰らない様努めました。更に全身に数多く出来て居た熱帯潰瘍に似た皮膚病も充分治療出来ました。或る時若水看護婦が「何故軍医さんは、貴方をこんなに待遇するのです。何があるんです」と言う。「さあ何故でしょうね。私にも判りませんが。」ととぽけて通しました。又或る時は若水看護婦が珍しいお菓子を持って来て呉れました。聞けば昨夜米軍将校団より招待され、盛大なパーティが開かれ、且つお土産まで頂き、私もおすそ分けにあずかった訳です。毎週何回も映画会、音楽会と招待されるとの事でした。赤十字看護婦と言う点と、女性優遇精神の表れらしい。私の寝台の隣りは海軍さんで神社の神官だとの事です。此の人も体調がもう一つ香ばしくありませんので、私同様良くゴロ寝をして居りました。所が何日頃からか木片を出して来て包丁で削り出しました。不思議な事をするので尋ねますと「実は召集を受けた時、御神体を守護神として持って来た。其れで帰国の際何うして持ち帰えるか考えて居たのじゃが、小さく削って野戦服に縫い込んで持ち帰る事に決めた。それで削っとるんじゃ」との事。世の中には種々の考え、行動をする人が居るものと思いました。考えて見れば戦時中はお宮参りが盛んでした。此の人の神社の場合、神様はお留守だった訳で、此所へお参りしてどれだけ願い事が聞き届けられたのでしょう。

 兵舎では何日内地へ帰れるかが、毎日飽きもせず語られました。一日も早く帰り度い。つい此の間迄は生還もさる事乍ら、先づ何よりも腹一杯食べたい事が第一の願いでした。食足りた今は故郷への願いが総べてです。此の頃私の勤務先病棟でも時々死亡者が出ました。病院全体では可成りの患者が居りましたから全体では相当の死者が出たと思います。ペニシリン其の他の薬物使用は、日本軍病院とは天と地程の差で、十二分、ゼイタク、浪費とも思える使い方でした。だからギセイ者は最小限度に食い止められたと思います。然し、レイテ、ミンダナオと言う最悪極限の戦斗に堪え抜いて此所迄生き延び乍ら、昇天した人達はどれ程無念だったでしょう。残念だったでしょう。家族の待つ日本へ手が届いて居るのです。もう一歩、船に乗れば良いのです。暗い密林から抜け出して、陽光燦々と降り注ぐ波穏やかな海を前に、緑深き背山の下、平和其のもののタグロパンで力尽きた此の人達、死者の顔を見ては、人間とは斯も果敢ない生き物なのかと、つくづく思いました。

 話更って、体調も良い毎日、暇でしたので、時々道を隔てた戦犯容疑者収容所を見に行きました。四周に高い監視塔が建ち、二重に張られた鉄条網と其の間を通る高圧電線、其の中に幕舎が可成り建って居りました。BC級戦犯が収容されて居るとの事でした。其うして道路の直ぐ前、道路に並行して便所が建てられ、然も戸がありません。道路は人も通って居ります。時々容疑者が用便に連れられて来ます。自動小銃を持った黒人兵が監視して居る前で用便するのです。「いやだろうなあ」とつくづく思いました。残虐行為は大いに非難さる可きは当然です。然し其れは帝国軍隊の最高統率者の名前で残虐行為其の物と言う方法で、ハガキ代金一銭五厘の価値より無い、物言う兵器として教育された人達です。戦時国際法もへーグ陸戦条約も赤十字条約も何一つ知らなかったのです。教えられなかったのです。殴る事、奪う事、殺す事より知らないのです。其の上に勝利者が敗者を裁いたのですから誤りも必ずある筈です。私は一応の安全圏から此の人達を見て、明日訪れる運命や如何に、と暗い悲しい気持になり、去り難かった想い出が今も鮮明に残されて居ります。

 二十年十一月九日 発熱
 此の日四十度の発熱、マラリアの心配するも単なる風邪らしい。連日雨あり、雨期に入ったらしい。復員話盛んなり、故郷思う事切なり。家族達、父母、健在なりや。妻は果して男女何れを産みしや。弟は元気だろうか、等々。正月迄に復員出来ればと、毎日寝台上で正月を想う、と手帳に誌されて居ります。

 此の頃病院の一角で内地帰還本部が置かれ、業務開始となりました。「サー帰れるぞ」毎曰が大変楽しくなりました。でも帰還者のチェックが大変厳しく、道路一本を隔てた真正面の「戦犯容疑者収容所」へ送られる者もあるとかで一寸心配でした。

 二十年十二月四日 同僚帰還
 本日、四野病のスリガオ分遺隊の西口宗市氏が帰り、身近な人間の帰還で確かな手応えを感じました。此の頃抑留される恐れから、帰還本部へ良く足を運びました。平岡、平野、平林、平山、平田等がピックアップされて居ないか調べました。何うやら其の心配は無さそうで一息入れました。

 此の頃しばしば「全員整列」が行われ、整列すると現地住民が残虐行為を働いた戦犯探しです。暑い日中に長時間並んで、住民の一家族、或いは数家族と米軍MPの閲兵を受けるのです。一人一人の顔を丹念に見て行きます。眼をそらしたり、ウツ向いたり、横を見たり、少しでも妙な素振りをすると疑われますから、軍司令官閤下の閲兵よりも大変です。気まぐれに、或いは腹イセに、「此れだ」とやられてはたまりません。本当にイヤな気分でシンドイものでした。

 或る日又「全員整列」です。何日もの例で整列後便所の戸を開放し、幕舎、病室等地域内全部を調べます。只今日は「PWの票を持って整列」と言うのです。今日は一寸変だなと話し合いました。矢張り今日は違いました。日本軍帰還本部将校の検閲です。然も将校が前に立つと、「名前を明瞭に言って、PW票を見せよ」との事です。暫くすると、他の列で、一寸悶着が起き高笑いの声が聞こえ、解散となりました。直ぐに一団の方へ走って聞いて見れば、レイテとかで八月十五日迄に爆風で吹き飛ばされた一兵士が意識を失い、捕虜となり、米軍よりの説明の際、故郷の家族を考えてウソの出生地、氏名を告げてPW票に書き込まれたらしい。其の後、其の時告げた名前を忘れ、殊に敗戦後は気楽になって、病院炊事係として勤務に就く時本名で登録して仕舞った。時々想い出して同僚に「私の名前は何と言うのでしょう」とも聞き難ねて今日迄過ごして来たらしい。其所へ米軍から「病院の何某は何日送還」との通知が来ても病院には該当者無しと言う次第。其れで今日の騒ぎとなったのです。聞いた皆は大笑いして「人騒がせな奴」と怒られつ大ニコニコで目出度い結果でした。(事実先輩達即ち八月十五日以前の人達は総べて偽名だったらしい。)此の人達は後方に居る高級職業軍人とは異なり、勇戦奮斗しつつも止む無く捕虜になった人達です。其れでも、戦陣訓の「生きて虜囚の辱めを受けず」に縛られて、何と無く物静かでした。戦中或る島で「生きて虜囚の辱めを受けた」将官参謀長は重要書類を米軍に取られて尚米軍人と交換されて、日本へ帰り昇進しました。高級軍人と下級軍人とは此程差別されたのです。中国戦線で負傷して捕虜になり、尚且つ逃げて帰っても、一度捕虜になれば、どれ程哀れな運命が待って居た事でしょう。死以外の途は無かったのです。三〇師団でも八月二十日過ぎ、捕虜になって居た兵士が降伏勧告使となって訪れ、激しい責任追及で自決させられた事もあったらしいのです。何と愚かな将校と哀れな兵士でしょう。西欧軍では捕虜になって尚脱走し味方陣地へ帰れば大変な英雄だった。私は此の種の本を見る度に腹が立ちます。戦陣訓を作り、実行した皇軍とは一体何所の軍隊だったのかと情け無くなります。

 二十年十二月初め生穂の上田氏が帰還組に入って、帰還本部前で夜間でしたが整列して居る中から、見送り人に向かって「淡路島出身者は居らんか」と呼びかけられました。私は早速佐野の我が家へ「健在」の旨伝達方お願い致しました。帰還後聞けば、十二月半ばには家の方へ「健在」の通知あり、母、妻、弟達は大変な喜び様だったらしい。「比島では一人の生存者も居ない」と周辺で言われ、悲しみのどん底にあった為、喜びは大変だったそうです。

 二十年十二月十六日 タグロパン出発
 本日は愈々比島との別れです。午前中出発しました。門外に待つトラック迄、両側には戦犯探しの住民が並んで沢山のMPが眼を光らせる中、PW票を一人宛チェックされての行進です。其の中で何所かの曹長が引っかかりました。直ちに前の戦犯容疑者収容所へ連行されました。喜びから悲しみへの逆転です。顔は蒼白になり、両腕をMPに抱えられて去りました。所が此の人は夕方出航前のリバティー船へ只一人舟艇で送られて来ました。容疑が晴れたらしいのです。大変な元気でタラップを駆け上って来ました。居合わせた人達の祝福を受けて大喜びでした。直ぐに沢山の人達が集まり喜び合って居ました。

 出港の時は船上に並んで思いを島に残す人達が立ち尽くして居りました。各人は恐らく喜びと悲しみと、死者への哀悼の気持と複雑な心境だったと思います。

船内は広くユッタリと足を伸ばせて「往きと帰りは大変な違い」と大笑いが出て楽しい気分でした。出航後船内回覧で、「浮遊機雷があるので監視兵を出せ、やられた船があるぞ」との事で直ぐ何名かの要員が出ました。私も寝られない侭甲板へ「夜景でも見よう」と出ましたが何も見えません。只機雷監視兵の真剣さには感心しました。行きの監視兵はまあ良い加減なものでしたが、愈々命を拾って帰れるとなると此の様に真面目になるのです。何も見えない暗い海を脇目もふらず見つめて居ります。眠気さましに各人一本宛の煙草拠出も誰一人文句を言いません。

 人間の生きる事への執着と言うものは、凄いなあと感心させられたり、其の生への執着を無視して、己れの権力欲を満足させる為、「死ね」と命ずる人達の残酷さに思いを致したりしました。

 十二月十八日此の頃より冬の北風が強くなりました。

 十二月二十日九州南東海上に達し、上着を着るも尚寒さに震える。


     

次へ続く
 
      

2003年5月再版発行 
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載  禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003


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