これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。
平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
11.投降
二十年九月二十二日 投降へ
此の日住み慣れた?懐しの我が家を早朝出発。前日用意してあった筏で対岸に渡り、密林中を縦横に走って居る日米両軍の通った道を、小さな磁石頼りに南下する。歩いて見ると驚いた事に、過去我々は戦友の白骨に迎えられ、見送られて歩いたのに、何と此所では水牛の自骨がズッと出迎えて呉れるのです「此所の兵隊は良かっただろうなあ」と異口同音に申しました。事実スリガオ残留の四野病斎藤隊は二十五名の兵員中二十名生還して居ります。尤も此所で斗った高木大隊の人達がアグサン河を上流へ上る途中徴発した食料の御礼に後日私達は沢山の投石を受けるのです。
九月二十五日、或る捨てられた畠の中の廃屋で二階に上り昼寝をして居りました。其の時夢を破って、パンパンヒュー、と銃弾のお見舞です。其の瞬間銃を片手に草むらへ飛び降りる速さ。降りればガサガサッと草の中を散らばる要領の良さ。直ぐ「撃つな」と小声で命じました。一息入れると、「我々も元気になっとるなあ」とつくづく思いました。でも此れは如何に、銃声を聞く度に恐しくて仕様が無いのです。皆に聞けば同様との事で、人間捨て身で居た先日迄は何とも無かったのに、体が震える程銃声が恐いのです。いざ助かった、となればまるでだらしの無い兵隊さんになって居りました。
暫く例のダンマリ戦術を守って居ると、矢張り相手は盲撃ちに何十発か撃つと、引き揚げました。防禦上の良い地点を探してボツボツ夕食準備に入りました。此の時ガヤガヤと大きな声がして、十名以上の日本軍らしいのが近くを通りました。後サグントへはそんな部隊は出て来ませんでした。でも言葉の調子は日本語だったように思う。敗戦を信用せずに山中に入った部隊の話は良くきましたが、或いは其れがゲリラだったのか、永く疑問の侭残りました。
二十年九月二十九日 ハラビタン
此の日歩いて居ると、大河に出ました。淀川の川口位ありました。「ウマヤン河に出たな」と思いました。然し良く見れば河の左岸に出る筈だったのに、右岸へ出たのです。暫く考えて判ったのですが、密林中を右往左往して居る間に、南行した心算が東行になり、リュウアノン河下流に戻って来たのです。そうして地図上より判断し廃屋数等より判断するとハラビタンが正しい様です。「仕様無いわ。もう此所で筏を作り、タラカグン迄行こうや」となりました。次の日起きて河面を見ると一隻の丸木舟が近づいて来ます。直ぐ銃を持ち警戒して居ると、住民五、六人と日本人一人が上陸して来ました。名前は忘れましたが、旧憲兵で投降勧告使だそうです。ランガシァンにビラを張った人達でした。此の時米軍のレーションやら、煙草等少しもらいました。又サグントが筏で一日もかからない下流にある事を聞き、ビックりしたり、喜んだりしました。食料は充分あるし、ゆっくりして大きな筏作りをしました。又沢山の細い竹も積み込みました。此の竹棹は筏の梶代りに、切り立った両岸を突くと、刺さって仕舞って抜けず、使い捨てになりました。
二十年九月二十九日 ハラビタン出発
朝愈々出発。川中へ出て見れば、大変宜しい。歩く事に比べれば、まるで天国です。鼻歌でも出そうでした。所が暫くして河の曲り角右岸に大木が横たわって居ります。日本では考えられない様な大木で枝が水面に出て居ります。「近寄せるな」と頑張りましたが、水流に押し寄せられて、遂には筏の底で竹を束ねてある横木に枝が引っかかりました。水流も激しくひっくり返りそうになり、何うにもなりません。其れで徳田に水中へ入らせて、幹の上に足を乗せ、肩で筏を持ち上げさせる事にした。彼は水中に入り足場を定めた後「やるぞ」と言う声と共に持ち上げました。途端に筏はさっと走り出しました。所が何と、徳田の首が次の枝と筏の間に挟まれたのです。「仕舞った」と思う間も無く徳田は水中に消えました。私は船首に居て、ヒョイと前方を見、後を見ると彼はポッカリと浮んでついて来るんです。実は私以外泳げないので、藤ヅルでタスキ掛けにして筏と結んでありました。早速引き上げて見れば首筋が赤く腫れて居る程度です。無傷、嬉しかった。「殺した」と思ったのに無傷です。「良かった」と思って居ると、「班長足が!」と大声で言われて気付くと、私の左脛中央前部から大量の血が流れて居ました。直ぐに止血、消毒、包帯と筏上でやりましたが、脛骨が白く見えて居りました。此れだけの傷が徳田騒ぎの最中、突き出て居た枝でやられたらしいのに、気付きませんでした。今日でも明瞭に其の傷痕が残って居ります。見る度になつかしい傷です。
下流へ下って来ると住民の丸木舟も多く行き交い、「平和な社会だなあ」と別世界へ行った移民の様に、物珍しくつくづく見とれました。
午後河の右岸から合図があり、私達を呼んで居るのが見えましたので、筏を近寄せると日本軍でした。上って来いとの事で早速上陸、百米程下流の米軍事務所へ連れて行かれました。米軍の検査です。武器を渡すと裸になれとの事、文字通り生まれた時の姿になりました。咄嵯に「此りゃ不可ん」と背嚢の中より手帳を取り出し、左右を見て見当を付けて、砂の中に踏み込みました。先輩達が取り巻いて居りました。直ぐ水浴、河中で洗いシラミの居ない米軍支給被服を着用しました。永い間の御交際を願ったシラミ君が其の巣と共に火中に投入れられるのは一寸惜別の情が湧きました。後で砂場へ戻り手帳を取り戻しました。
幕舎へ行くとレーション(野戦食缶詰)が配給されました。こんな美味しい物を煮炊きもせずに食べて、無尽蔵に砲爆撃、銃弾を呉れる米軍相手だったのかと、感無量でした。更に米兵士の良く肥えた立派な体格には気押されました。此方はツンツル天の頭、骨と皮だけのヒョロヒョロの兵隊「此りゃあかんわい」とつくづく感じ入りました。暫くして米軍指揮所へ呼ばれて出頭すると、通訳を通して簡単な行動経過、残留兵の有無等調べられました。日軍将校から主として東ヶ崎大隊長に付いて、詳細に聞かれました。未だ出て来ないとの事でした。私もなつかしい人が早く無事に出で来る事を心から祈りました。然し遂に生還されなかった由、御冥福をお祈りするのみです。
投降して分かりましたが、日付けが二日違って居りました。此の文中の日付けは此の日修正しましたが、一、二日違って居る可能性はあります。此の頃降雨無く水流が細って米軍舟艇が航行出来ず、可成りの日本軍兵士が留まって居りました。十月九日豪雨あり、此れで下航出来るだろうと話し合いました。
二十年十月十一日 サグント発
米軍舟挺で出発。途中ゲリラの銃撃があるから、「頭を出すな」との事でしたが、余り射撃は受けませんでした。ブツアンヘタ暮れに着きました。河原で米軍トラックに乗せられ「頭を低くしろ、撃たれるぞ」との事でした。「此所迄来て撃たれてたまるか」と皆言われた通り姿勢を低くしてトラックのサイドの中で小さくなって居りました。街中へ入り住民の数が増えて来ると、米軍兵士が空へ向けて威嚇射撃をしながら猛スピードで走り、頑丈な鉄筋コンクリート建ての施設に入りました。便所で聞いた所では、ブツアン監獄だそうです。此の兵士はスリガオに居た高木大隊の兵土で、山に入る時此の監獄で抵抗線を敷き後衛戦をやったとかで、便所の傍の大穴を指差して、此れが米軍砲弾の破裂した跡であり、「戦友の死場所だった」と合掌して居りました。
二十年十月十二日 ブツアン発
朝ブツアン埠頭へ行くと、集った群集から盛んに「バカ野郎」「死ね」等日本軍が教えた罵声を浴びせられました。更に小石や泥の固まり、中には大便を入れた空缶を投げられた人も少し居り、軽い傷を受けた人も居りました。スリガオからワロエ方面へ向かった高木大隊及び他の部隊が食料に悩み、日本陸軍の最高基本方針たる現地自活と言う名前の略奪を十二分にやった地帯ですから、住民の怒りも当然の事と言えましょう。
此の日ブゴ収容所へ入りました。海岸の幕舎でした。此所で淡路島出身の歩兵軍曹に会いました。然し此所の幕舎の空気は全体として、沈んだ陰惨なものでした。将校、下士官として、曾つての日、無理をしたり、威張り散らした人達が袋叩きにあって、半死半生になった姿をチョイチョイ見ました。人間性乏しき人達がたまたま学校を出ただけで将校、下士官になり、権威主義の固まりになった時、誠に恐ろしい、目を閉じたい蛮行が横行しました。将校、下土官の中に非常識の標本見度いな人を良く見受けましたが、心すべき事です。
二十年十月二十二日 ブゴ出発
本日出発となりました。聞けば当収容所も本日限り閉鎖で炊事場にある食糧の残りは誰でも取り放題の由で、私達も連れて出掛けました。山の様な食糧を大勢で分け取りして居りました。米軍は傍で笑って見て居るだけです。砂糖、菓子、缶詰等を抱えたり、背負ったりして浜辺に整列しました。餓えた人間が回復期に入ると、文字通り一日中食べ続け度いのです。丁度腸チフス患者の回復期と同じです。恥ずかしいとか言う観念は消えて仕舞って、只もう滅多矢鱈に食べ度いのです。
並んで居ると「班長お元気で」と肩を叩かれました。キョトンとして良く見なおせば内科の上山兵長です。聞けばマライバライで投降した由。彼はバンタドン山で部隊分散の時、もう一人と共に衰弱した内科医長の当番護衛として残された筈です。其の人と元気に再会出来たのです。其の間に集った群集から、例の罵声と泥と小石と缶詰入り大便が私達を襲いました。缶詰の角で怪我をしたり、大便で体を甚しく汚された人も可成り出ました。米軍が盛んに規制して居り、時々上空に向けて威嚇射撃をやりますが、慣れた群衆は全然ひるみません。米軍上陸用舟挺が前扉を倒して通路として乗船出来た時はホッとしました。
早速今朝の収容所での戦利品をたらふく詰込む宴会を始めました。暫く談笑して居りますと、さあ大変、船底に並べて板を渡したドラム缶便器の上は大賑いです。私も度々お世話になりました。餓えた後は空腹を我慢しなけれぱならない位は先刻承知の衛生兵なのに、誠にお恥ずかしい次第です。
所で高いドラム缶の上で下界を見まわし、始めおかしく、次に悲しくなりました。ブリッヂ、舷側の高い所から米軍兵士がタバコを一本宛見せびらかせて投げ与え、奪い合う姿を見て大いに楽しんで居るのです。我々を馬鹿にして居るのです。中には催促して居る者さえ居ります。
過去日本の教育が、物言う兵器としての教育にのみ専念し、人間の尊厳、誇り等を教えなかった為、我々を今群衆の汚物にまみれ、米軍兵士のタバコをねだる人間に仕上げたのです。(戦後私は可成り多くの戦記を読みました。米英軍捕虜は極限に至る迄、勝者に対して、人間の尊厳、人格の尊重を要求して居ます)今日再び戦前が始まって居ります。物言う兵器、恥を知らない人、人間とは何かを考えない人間を再び作っては不可ません。其れは再び不幸を招き、或いは人類滅亡すら招きかねません。さて、見世物台のドラム缶から下りて考え事をして居ると、又上山兵長がやって来ました。話では内科医長と其の当番はバンタドン山下で死亡し、前線の飢餓地獄から引き返した朝鮮人兵士と一団となり、マライバライ周辺迄引き返しジャングルに潜伏。住民の農産物を盗んで生き延び、終戦のビラを見てマライバライヘ出て、米軍に投降したとの事です。少し話して居ると、朝鮮人兵士が凄い見幕で呼びに来て連れ去りました。何か暗い蔭を感じさせる一幕でした。
二十年十月二十四日 第ニタグロパン収容所(レイテ島)
タグロパンに到着すると、海岸のヤシ其の他の樹木が一本残らずと言って良い程、砲爆撃で吹き飛ばされて居りました。米軍の上陸準備の砲爆撃が如何に物凄かったか、息を呑む想いでした。トラックで収容所へ着くと、各部毎に米軍の検査がありました。此の時私の前へ来た米軍将校が、私の目に指先が入らんばかりに手を突き出して、何だか判らんが怒声を張り上げるので大変困った。すると飛んできた米軍通訳が笑い顔で、「鼻下に蓄えた軍国主義の象徴を早く落とせ」と言っている由、早速教えられた近くの捕虜散髪所へ行って、ヒゲを落して来ると米軍将校は笑って「OK」と言って呉れた。二、三日此の幕舎に居りましたが、兵器、糧秣、被服の整理、と言っても箱のこわれた物を何でもトラックに積んで、船に積み更に沖へ捨てに行くのが仕事とか。余りのぜいたくさに皆びっくりして居りました。又道路工事の労役にも可成り出て居る様ですが、機械力を充分使うので仕事は楽な由。又割り当てられた幕舎へ人ると、幕舎長が「○○軍曹である。○○軍曹だから名前を忘れない様に」と強く、妙な念を押されました。直ぐおかしな人だな、と思いました。後刻傍の人に聞くと、レイテ戦で爆風に吹き飛ばされて非度い打撲傷を受けて意識不明となり、米軍に収容された戦中捕虜、即ち先輩だとの事でした意識回復後米軍の調べに対して、服がズタズタに破れて居るのを幸いに、中尉を軍曹と偽り、名前も出身地も嘘を言って押し通して来たらしいが、八月十五日以後顔見知りが来て、本名階級がばれるのを恐れてそんな発言をして居るらしいとの事でした。でも此の人は良く出来た人らしく、皆いやがる仕事先へ率先して出て居り、程度の余り良く無い兵隊も、ハイ、ハイと良く従って居りました。
使役には毎日沢山出て居りました。朝の使役隊出発も見ましたが面白いものでした。トラックの後へ二列に並ばせて、黒人兵が大きな声で腕を一声宛上げ降しつつ、「ワン」「ツー」とやります。五、六人、七、八人目にはウンと声が小さくなり、又前へ戻ってやり直し、二、三回やると、ニコッと笑って「早く乗れ」と言う。白人国家たる米国の黒人教育及び其の差別なるものが良く判りました。次に糧秣整理の使役は、梱包の破れた捨てる物の中から毎日沢山の食料品を、上下続きの野戦服の中へ入れて持ち帰ります。晩は大変な賑やかさです。イースト菌を入手して酒を作り毎晩大宴会です。呆気にとられました。更に此の事を良く知って居る米軍(毎晩巡回兵が見廻って居ります)が此又知らん顔です。所が使役と言っても兵器庫の方は大きらいだと言う。理由は昔日本軍の捕虜になり、長崎とかで労役に駆り出された下士官が現場監督なのだそうです。捕虜が毎日現場に着くと日本語で「諸君を今日一日監督するが、僕は諸君の戦友が僕に与えた待遇と同じ待遇を与えるから、幸せと思いなさい、喜びなさい」と演説され、手に持ったゴムホースでおびただしく殴られる一日だと言う。でも其所は殴られる訓練だけはみっちりと、十二分に教育された日本兵です。「まあ仕様無いわ」「日本軍だったらもっとやっただろうからなあ」「充分食わして貰って居るだけ良えわい」と苦笑して居りました。でもイヤだ、行き度く無い、で結局一日交代だそうです。
次へ続く
2003年5月再版発行
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003
|