これは著者の平岡 久さんがご自身の青春時代であった24、5才の頃の
軍隊の体験をご自身の記録を元に昭和57年まとめ、自費出版にて発行され、
その後2003年に増補改訂版として再版されたものです。
平岡 久さんの許可を得て、ここに全文を転載致します。
著作権は平岡 久さんに帰属します。
よってこの記事の無断転載は厳禁です。
10.山中への敗亡行進 その4
二十年七月二十八日 煙草入手
住民の古い焼畑跡へ辿り着く。煙草が何本か生えて居り、「煙草だ、煙草だ」と歓声が上りました。早速集めて日に乾し、火を燃して乾燥する。皆寝転がって吸うが、実に美味しい。余程嬉しかったのだろう、手帳に記されている。
二十年七月三十日 一飯盒の藷
六月入山以来、始めての人が手を入れて無い小さな甘藷畑へ入りました。夢にまで見、一日何度も話して居た「一人で一飯盒の藷を食べて死にたい」と言って居た、一飯盒の藷が食べられたのです。昼から晩まで起きては食べ、覚めては食べ、満腹の幸せを存分にかみしめました。
二十年七月三十一日 大きな畠
此の日は元気に出発しましたが昼前三〇アール位の大きな甘藷畠へ入りました。直ぐ手を入れて見るに大きな藷がゴロゴロです。イモを両手で差上げ思わず喜びの声が揚がりました。もう大丈夫、本当にホッとしました。良くまあ頑張ったものと一人涙が流れた事を覚えております。傍らの廃屋の二階に背嚢を置き、二、三人で掘り二、三人は早速カンコロ(蒸し藷の干物)作りに精を出しました。昼過ぎ又畠へ出て居ると上流からワイワイ、ガヤガヤと人の声、アッと言う間に畠は兵隊で占領されました。中地区隊です。「待て、待て、此所は第四野戦病院の患者用藷畠だぞ、掘る事はならん、駄目だ、駄目だ」と叫ぶと「何を生意気な、撃ち殺せ]と殺気立って詰め寄って来ます。其所へ「其所に居るのは何者じゃ、中地区隊長根岸大佐より先行する者は脱走兵じゃ、見逃すからさっさと立去れ」と大音声。流石は陸軍大佐殿、此方は口髭をピンと立てて、軍医中尉と詐称して居てもてんで歯が立ちません。スゴスゴと追い出されました。(可成り前から対外的には、私は口髭を生やし、軍医中尉山口正と名乗って居りました。階級章も将校服も捨てた将校は沢山居りましたから不思議ではありません。大事なのは口髭と、横柄な言葉、態度、物腰です。薄れたとは言え、残って居る軍隊の階級性を利用する事は大事であり且御利益があります。又やせ衰えてつんつる天の頭と、シワだらけの顔では年令が大変判り難いのです。尚私は平常一七五pの身長、七十五sの体重あり、声が大きいので都合が良い。早速其の効用をお見せしましょう)歩兵七四連隊に畠を追い出されてムカムカしつつ帰り、二階へ上り一休みして居りました。下の土間では矢持達がカンコロ作りに懸命です。イマイマしい思いで、窓辺から大さわぎの藷畠を見て居りますと、珍しく軍刀を吊った少尉殿がやって来ました。土間の兵隊に「おい七四の連隊旗を知らんか」「人に聞かにゃ判らん様な者に教えても無駄じゃ、自分で探せ」矢持の声です。相手は大ビックり、そして激怒「コラッ敬礼をせんか、敬礼を!」「判らんのか敬礼が!」やせても枯れても少尉殿は声がでかい。土間の兵隊達が漸く敬礼をしたらしい。二階で模様を見て居た私は我が軍苦戦、援軍必要と判断「おいおい其所の少尉、兵を相手に何をグズグズ言うとる。サッサと行きなさい!」「ハッハッ」と少尉殿慌てて伍長サンに敬礼して歩きだす。「軍紀が弛緩しとるにも程度がある」とブツクサ言い乍ら去って行った。声とロヒゲと態度の効用はザッと此の通りです
二十年八月三日 藷畠出発
カンコロ作りをしていたが、本日中地区隊を捨てて出発。今日考えるに看護婦達と会わなかったのは、彼女達が中地区隊と別行動をしたのでしょう。
二十年八月八日 筏作り
可成り大きな支流が流れ込み、二、三日前から歩いて居た、リュウアノン川が水量を増加して来ました。何やら筏に乗れそうになった。其れで川の左岸に幕舎を張り筏作りを始める。
八月九日昨日に引き続き、対岸へ竹伐りに出掛ける。私は一足おくれて出発せんとしていると、松岡がはまった(溺れる事)えらいこっちゃ」の声。見れば浅瀬から水が落ち込んで、滝壷の様に成った所を指さして居る。突っ立った儘見て居るだけ。さっと私は走って滝壷に飛び込み、松岡を引きずり上げた。可成り深かったが、私は泳ぎには自信があり恐しく無かった。そうしてお手のもので、水を吐かせ、人工呼吸をし、ビタカンを打ち、手当てすると、直ぐ蘇生した。やれやれと、ホッとすると共に大変嬉しかった。私を助けた彼を、今私が助ける。恩返しが出来たのです。二人は手を取り合って喜び合いました。彼は泳げないのだが、水から引き上げても手にした蛮刀を、しっかりと握り締めて居り、「日清戦争の時の木口小平ラツパ手の様じゃ」と笑い話になりましたが、「溺れる者藁をもつかむ」の言葉通り蛮刀を離さなかったのです。
二十年八月十一日 流弾を浴びる
当日筏で航行中、両岸竹藪の間で相当多数の流弾を浴びた。慌てて竹藪へ逃げ込み、暫く様子を見て時間を過す。何うやら戦闘圏内に入ったらしい。遠雷の様な砲爆撃音は依然として続いて居た。
二十年八月十二日 大きな畠跡
比較的新しい焼畑跡へ入る。面積も大きく、家も多少の雨露は防げる。次から次へ内地の里芋に似た芋やら、つくね芋に似た人頭程の大きな物や、食料は探せば続々と出てくるので宝畠と名付けた。食料が充分補絵出来るので落着いた。岡口も大分元気が戻って来た。
二十年八月十六日 祈願祭
荒み勝ちな六人の気持ちを和らげ連帯感を強める為、簡単な祈願祭をする。併せて矢持の誕生日を祝った。此の日、日本のシマイサギに似た魚が一匹獲れたりして、腹は一杯だし和やかに暮れた。
二十年八月二十三日 ランガシアン
早朝筏で下航中左側に廃屋を見付けたので静かに上陸。此の日朝霧は極めて深く、一寸先も見えない時もあった。勿論終戦は知りませんので、皆銑を握りしめ、無言の侭、手真似だけで最大限緊張して一歩一歩進み住民廃屋を見て回りました。大きな廃屋が、七、八戸あった様に記憶する。家の中を見ると掘り下げて、砲兵陣地にして居たらしく、屋外から河中へ流しこまれた砲弾薬莢の大量なるにビックリしました。恐らく米軍の砲兵陣地だったのでしよう。深い霧は仲々晴れませんし、人っ子一人居らず、シーンとした深い沈黙の世界を取り巻く乳白色の霧。其れで私と岡口が物陰に皆の背嚢を集めて本部を成し、二人宛二組の斤侯を出しました。帰路不明になれば小銃一発二回点射、本部は三発連射と合図を決めて出発。暫くの後、山本組は戻ったが、松岡組は帰らないので心配になって来た。然も霧が少し宛薄くなり始めたのです。すると「ワンワン」「オイオイ」と泣声が聞えて来る。へえ、おかしいな、と不思議に思って警戒して居ると、霧の中から松岡組二人が出現、天幕を背負って近づいて来る。走り寄ると二人がかきついて来て、大声でしゃべり泣くのです。足元を見ればトウモロコシが一杯の天幕です。此方も「やったあ」と歓声を上げました。話では此所から、二〇〇米程ジャングルを抜けた所に、何ヘクタールとも判らない大きなトウモロコシ、陸稲、甘藷の混植畠があるとの事、一ケ連隊でも食い尽せない規模だと言う。早速廃屋を潰して、半地下室(防御上の配慮から)へ入って火を燃して、白い乳状から半ば固まった丁度食べ頃のトウモロコシを焼いて食べました。甘露の味とも言える美味、談笑を続けました。気分は朗らかになり、とても元気が出ました。「では行こう」と畠へ出かけました。ジャングルを抜けると、一面見渡す限りの畠です。誠に見事です。松下幸之助さんでも、此の時の私達の様な、豊かになった気分は知らないでしょう。「遂にやった」と思いました。皆大変な喜びでした。早速本格的小屋作りに取りかかった。
背後をフタバガキの大木に守られ、根本は写真の様に根が板状になって側方を守って、前は高く胸壁となり、傍らにはきれいな水が流れ炊事に便利な天然の塹壕の様な所を選ぶ。部落廃屋から板を運び床となし、屋根は草を刈って葺き久し振りに板の間で車座になって、談笑しつつ立ち上っては広大な畠を眺め、皆一様に幸福、満足感をかみしめたものです。思えば昨年比島に上陸以来直ぐに雑炊食となり、大体は空腹を友とし、秋以降、入山以来と空腹は餓えとなり、死となり、地獄の中を突破して、漸く餓死とは完全に別れる事が出来た事の喜び、例え様もありません。此の時何所からか一匹のヤセ犬がやって来ました。「サーア御馳走」と喜んで小銃を持ち出し、私が撃とうとすると、松岡が腕を押え「駄目だ。そんなに震えて居ては当たらん」交代して松岡が銃を構える。見れば矢張りブルブル、ガタガタです。ワイワイ言ってる間に逃げられて仕舞い、残念がる事しきり。其の晩は喜んで皆寝ました。所が横になれば凄い蚊です。とても寝られません。火をかざして見ると、小さな蚊が外被(軍隊のレインコート)をかむって寝て居る上をガサガサと隙き間を探して蟻の様に歩き廻って居るのです。飛ばずに歩き廻るのです。早速蚊やり火を燃やしました。横になると直ぐ目が覚めました。「痛い。痛い」の合唱です。骨の上に皮を張ってあるだけで、板の上に寝たのですから何方を向いてもとても眠れたものではありません。坐っても尻が痛い。背嚢の上に腰を掛けておしやべりをして、ウトウトしたりで夜明けを迎えました。次の日は朝から草刈りをして干草を作り、晩はしっかり敷いた干草の上に天幕を敷き即席ワラブトンで安眠を楽しみました。
畠を一通り見廻りました所、甘藷、陸稲、トウモロコシが混植されて居り、トウモロコシが一番早く熟して居り、早い物は数日で完熟期を迎えます。其れで成可く軟らかいのを探して数日分集めました。又砂糖キビも少し取って帰り、甘藷も少し収穫しました。又西瓜も見付けましたが、約一週間後と言う事で帰りました。勿論何処から狙われて居るか判りませんので、低地を腰をかがめて一人宛歩き、後は援護役に任ずると言う戦場での常識は守りました。更に不思議なのは昼間煙を上げて、火を燃やしても敵機の空襲が無い事です。又周辺の銃声は尚盛んですが、砲爆撃音は完全に消えて居りました。
八月二十五日無事生還の祈願祭をする。八月二十七日は戦没者慰霊祭を行う。皆の気持ちを和やかにし、且一体性を保つ為苦心しました。此の頃、ランガシアン旧部落へ行って見ると、廃屋の半地下室に頑丈な朝鮮人上等兵一人と、病弱の日本人一等兵二人の三人組が居りました。此れを見て「食料は有り余って居るのだし、三人を収容して我が隊に加えては」との意見が出ました。病弱の日本兵二人も助ける事は可能と見えるし、此からリアンガ(後述の理由)へ出るには矢張り戦力が欲しいのです。五割増になります。周辺の銃声は尚盛んなのです。然し寝首を掻かれる恐れもある。地獄を歩いた人間として人間不信は強かった。と、こう思案し協議はまとまらないで帰った。二、三日して行って見ると二人の病兵は死んで居り、上等兵は居なかった。然し二人の背嚢は手着かずに残って居た。開けて見れば少量乍ら塩と食糧があった。此れを奪わず去った事、又弱り果てた初年兵二人を助けて、此所迄連れて来てやった事自体、立派な人間性の持主だった、と大きな反省をさせられました。「惜しい事をしたな」と皆後悔し残念に思い、又我が身と比べ恥ずかしくもありました。昨年九月九日スリガオ大空襲の時病院前庭に並べられた患者中、「痛い、死にそうだ」と、派手に騒いだのは朝鮮人が多く、黙って死んで行くのは日本人が多かった様に思いました。其で朝鮮人に対して一種の軽蔑感を持ったものでした。(然し今考えると抑圧された人達の自己主張の現れだったと理解できる様になりました)
二十年八月末 三上少佐と会見
此の頃畠の北東端で川の方へ突出した形の場所で完熟したトウモロコシ採取中昼になり、食後休んで居ると、川の方のガケップチから三人連れが現れました。「わしは三上少佐じゃが、何所の部隊だ」さっと敬礼。「四野病先遺隊の山口中尉です。部下五名と居ります」と答え暫時話しました。すると「どうかね、わしと一緒に行動せんかね」との事です。シラエ峠を守った勇士として名高い人が部下二名になって居るのです。私は「暫く時間を」と別場所で協議すると、皆は「駄目だ」と言う。第一に私の中尉の化けの皮がはげる。第二に中尉で押し通しても相手は少佐だ、こき使われる。私も成程と賛成。「大隊長殿、誠に有り難いお言葉ですが、幕舎に回復途上の二人を養生させて居ります。彼等の回復を待って追求致します。」と答える。「うむ、其れも良かろう」と暫時の後別れた。後日サグントで聞いた噂では、此の後、三上少佐は投降勧告使とのトラブルに巻き込まれたとの事でした。若し事実ならば、良く同行しなかったものと喜び合いました。
三上少佐の後日
昭和六〇年三月十四日に、歩兵第四一連隊比島戦友会事務局、永井啓三氏(比鳥墓参時御一緒された人)より送られました文書を再点検して長い間の疑問の一つだった。三上少佐の事が判明しました。以下その詳細。
曙光新聞(レイテ捕虜収容所新聞)昭和二十一年度約一年聞発行
二十年六月十五日付新聞
歩兵第七七連隊三上幸衛少佐は、昭和二十年九月十六日、サグント上流で、二名の婦人と、一名の男子、少年幼児各一名を殺害した罪で、昭和二十一年五月六日、裁判開始。
初版本では、昭和二十年十月、サグントの捕虜収容所では「投降勧告使を殺害した罪でマニラへ送られた。恐らく死刑だろう」との話しを聞かされました。然し私自身が直接見聞して無いので、「トラブルに巻き込まれた」とボカして書きました。
後昭和五十八年八月五日、マニラ郊外、モンテンルパ、の戦犯墓地で三上少佐の名前を探しましたが判りませず、疑問の儘前記の様な表現にしたのです。
所が今回の曙光新聞で内容が判明したのです。内容は少し異るが、彼等は矢張り事件を起して居た訳で、恐らく有期刑で死刑にはならなかったのでしょう。何れにしてもランガシアンで同行を勧められ乍らも、断った事は大変良かった。
又此の頃一寸困った事がありました。或る日兵隊二人にトウモロコシ採取に出した所、二人が昼前蛇を獲り昼食時焼いて食べたらしい。其れが夕食時「昼の蛇は美味かったなあ」と小声で話したのが聞き答められ、「蛇は全員で食べる定めだ」と問題は大きくなり二人がつるし上げられました。蛋白質不足が話題になって居た時です。皆さんは恐らくお笑いになるでしょうが、当時は仲々に重大事でした。殊に連帯感に傷を付けてはなりませんから、慎重に言葉を選んで、何とか丸く納めました。
二十年九月一日 矢持受傷
此の日周辺で余りに銃声盛んな為、友軍活動中と見て調査に出掛ける事になりました。準備に手間取って居る間に、朝トウモロコシ採りに出掛けた矢持が肩に盲貫銃剣を受けて帰りました。早速切開して小銃弾を取り出し、再度消毒止血処理をして治療は終りました。私は旅順、大連時代何回か医務室で切開、縫合をやり自信がありました。此の後毎日ガーゼ交換をし、経過は順調で化膿もせず急速に回復しました。此れで偵察行動中止。
二十年九月十五日 襲撃を受く
朝私は目覚めて、前の土堤上へ上りゆっくりと長小便をしました。やっと終わって僅かに体を横に向けた瞬間、ヒュンと弾が右耳の傍を通りました。トッサに私は左へ倒れました。続いて弾はドンドン来ますズルズルと土堤下へすべり降りました。下では岡口がトウモロコシを炊いて居て「班長がやられた」と慌てて、火の中へ足を突っ込み大火傷です。倒れた私はカスリ傷一つ受けて居りません。直ぐ皆は銃を執って前の土堤を楯にして対抗姿勢です。「撃つな」私は応戦させずに、状況を見るに小銃発射音よりして四名及至六名の部隊と判断しました。其れで松岡が二名を連れて、小さな川筋から相手の斜め後ろへ出て挟み打ちと決定、私等三名は依然ダンマリ戦術。
すると後数十発を撃ち込んで、スーと消えました。私はゲリラに襲われても基本的に応戦しない方針でした。応戦すれば我が方の対応策が相手に判り、何時までもお相手せねばならず、応対しなければゲリラ戦の常遺として、一撃して速やかに離脱する筈、との判断。更に彼らは自分の土地、家族を守る勇士であり、此方に被害が出ないかぎり成る可く応戦しない方針でした。私自身郷土が侵略されれば恐らく徹底した抗戦をするだろうと思って居りました。漸く静かになって平静に戻り、つくづく首筋を撫で「良くまあ当らなかったものと喜び又祝福されました。長い小便の間四十米程度のジャングルから照準して何故当らなかったのか、余程運命の女神がお気に召して助けて呉れたのでしょう。後は岡口の治療ですが、大変痛みを訴えて居りました。
私達がランガシアンヘ着いた頃からさしも賑やかであった砲爆撃はピタリと止み、大型航空機が高空を南北へ可成りの数が通う以外静かな毎日になって居りました。前記の様に小銃のドンパチはずっと続いて居りましたが、此れは分散した日軍とゲリラの交戦であり、我が師団本隊は、はるか東方リアンガ方面へ出たものと判断して居りました。
私は此の間歯に衣着せず、堂々と敗戦論議を良くやりました。米軍は今年の十一月から十二月初め迄に関東海岸九十九里浜に上陸するだろう。残念乍ら神風も吹かんだろう。台風時季は済み、シベリア高気圧の張り出す前、太平洋の波穏やかな此の時季、米軍は東京陥落を目指して、機動力の最も使い易い関東平野へ大軍を上陸させるだろう。近代兵器充実せる米軍は、竹槍日本軍を鎧袖一触、年末には東京陥落、戦争は終わるだろう。
中国の様に国土広大、然も前近代的国家は首都を失うも直ちに抗戦中止にはならないが、小国で然も近代組織を持つ日本の場合、首都失陥は即戦争中止になるだろう、等一生懸命で敗戦心至を説きました。
戦後私が読んだ本の中で、米軍は沖縄戦後九州への上陸計画と、関東九十九里浜上陸の二計画のあった事を知りました。無学な私が考えた事を米軍が計画して居た事は驚きでもあり且つはとても嬉しくなりました。
私は現役兵として入隊する迄、戦争時代の中で成長した為、且つは書物好きだったので、可成り多くの戦争の本を古今に亘って読みました。又兄達が全部自動車(近代工業の象徴)関係に居りましたので、アメリカの工業が質量共に如何に優れたものかを、可成り具体的に知りました。日本のトヨタ、日産とは天地の差がある事を。又現役兵として、旅順要塞重砲兵連隊に入隊して、私の居た二中隊が十五cm加農砲二門を持って張鼓峰、ノモンハン戦に出陣、質量共に秀れたソ連軍に圧倒された事を十二分に知りました。又関特演で十六年七月、大連防空連隊へ転属し、医務室勤務で軍医大尉の秘書となり、独ソ戦に関する極秘情報を全部見て居りました。今覚えて居るものでも「ソ連逃亡兵情報」或いは海岸砲台の対艦砲撃戦情報等があります。又ソ連軍の円型砲塁の惰報等もありました。更に大連では固い本をずっと読んで勉強しました。此等の結果、小国で然も後進国の日本軍隊は中国か、極東植民地軍相手の三流の誠に粗末極まる前近代陸軍だと知って仕舞ったのです。
敗戦となればジャングルの中でバラバラの我々はミンダナオの山中に取り残されるだろう。(山中迄誰も連れに来て呉れる等考えた事もありませんでした)だから東海岸へ出て現地の帆船を盗み、(スリガオで良く見て知って居りました。)来年即ち二十一年三、四月頃、南海の波静かな時季南中国海の多数の島伝いに中国福建省沿岸へ渡り、中国のジャンクを奪い(此の帆船は船首が低く、船尾が高く帆走に最適の船型で然も堅牢です。)六、七月又は十、十一月頃の時季に沖縄或いは南九州に向かい日本へ帰ろう。と話し希望を失わない様努めました。私自身話して居る間に必ず成功する、させて見せる、と確信に似たものが生まれました。
二十年九月十七日 敗戦を知る
此の日留守番二人を残して、旧部落跡ヘヤシの実を何とかして取ろうと出掛けました。すると廃屋に貼り紙がしてあります。
威豹作命○号陸軍中将両角業作
「軍は大命に依り、八月十五日以降米軍との戦斗を停止せしめらる。依って各隊各人は、舟筏其の他に依り、タラカグン若しくはサグントに集結すべし、残置患者には必要な衛材食料附添人を就けるべし。集結地に於いては米軍先任将校の指揮を受く可し」大要以上の様なビラでした。サア大変、投降ビラは今まで沢山見て来たが、直観して此は今までと違う。敵の謀略か、本物か。早速ビラをはがせて廃屋の日陰に入り、種々議論百出。結果として、文の体裁、内容、砲爆撃の終了等より判断して、本物事実と認定しました。すると、次は「勝った」と踊り上って喜ぶ者、「敗戦に決っとる」と言う者。「そんな敗戦なんてばかな、何所にも敗戦とは書いてないぞ」「アホ言え、勝った日本軍が、何故負けた米軍先任将校の指揮を受けるんじゃ」で敗戦を確認した。
私が彼程熱心に敗戦を教え込んでも、必勝の信念に燃えた大日本帝国陸軍兵士の再教育は出来て居なかった。私の演説中、黙って聞いては居て呉れたが、恐らく心中では「困った男よ。でも我々が生きて行く為には平岡は必要な人間だから、まあまあつき合ってやれ」位だったらしい。ビラを見て「勝った」と喜び、サグントで投降した時、便所紙にもならない軍票を沢山持った男が居たのですから。早々に旧部落を引き揚げ、幕舎に着き、地図を拡げて協議を始めた。先づ岡口の火傷の程度を見るに、後五、六日で歩行に堪えるだろうと判断、失持は大丈夫です。其れで二十二日出発と決定。目的地としてはタラカグンは余りに下流だし、サグントはリュウアノン河を対岸に渡り陸行してウマヤン河岸迄最大十日間と考えられたので、サグントと決定する。所が十日問の食料を背負う体力が無いと言う。議論の末少し携行食料を滅じて途中補充すると決定。(此所に大きな間違いが待って居りましたと申しますのは携行した地図は前記の如く破れたので、ランガシアンで再度作りました。所が何日間違えたのか、サグントがウヤマン河岸に書かれて居たのです。其れで陸行と決定したのです。)
リュウアノン河岸に正確に書かれて居れば体力不足の折です。ランガシアン下流の浅瀬附近のゲリラを恐れつつも、筏下りをしたと思います。実は将来リアンガヘ行く時は、我々の居る畠の下流地帯昼は危険だから月夜に下ろうと言って居たのです。事実サグントで聞いた所、此所で沢山の犠牲が出たそうです。丁度其の危険地帯を間違い地図のお蔭で、避けて通ったのです。
次へ続く
2003年5月再版発行
「飢餓の比島 ミンダナオ戦記」より転載 禁無断転載(著作権は平岡 久氏に帰属します。)
※(自費出版他発行分NO.94)
copyright by hisasi hiraoka 2003
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